井上嘉浩の判決に思う    有田芳生

   6月6日執筆(8日、9日、16日、22日に加筆・補正)

 6月6日、オウム真理教諜報省責任者で、地下鉄サリン事件など10事件で起訴された井上嘉浩被告に対する判決公判が東京地裁104号法廷で行われた。検察の死刑求刑に対して判決は無期懲役。
 この日、法廷に座る私は複雑な心境だった。井上被告が逮捕されて以来、その心境の推移をずっと見守ってきたつもりだったからだ。私の関心は、社会の矛盾を感じたことを動機に16歳でオウム真理教に入信し、麻原彰晃への帰依を深めることを原動力に全力で駆け抜けてきた井上嘉浩の青春を見つめることは、事件だけではなく現代社会に生きる若者たちの心のなかをかいま見ることに通じる大切なことだというところにあった。あえていうならば、尾崎豊の詩に共感したこの青春の情熱を救うものはオウムしかなかったのか、という痛切な思いが私にはある。しかし、被告人の罪は罪だ。いったいどのような判決となるのか。マスコミの観測はおしなべて極刑。何とも複雑な感情を引きずりながらの判決公判だった。
 そして判決の日。井上被告のご両親の横には、被告と何度も接見し、その人間的反省に大きな影響を与えているカルト問題の権威・浅見定雄さんが座っている。私はその後ろの席で判決を聞いた。3時間あまりの判決文朗読の後の刑の言い渡し。無期懲役。浅見さんは目頭を押さえ、右隣にいる被告の父親のひざを思わずつかんだ。母親は被告人の姿を遠くからじっと見つめていた。
 委細を尽くした厳密な判決。いろいろな論評がある。「木を見て森を見ない判決」という意見。しかしこれは判決文の誤読である。森の真実を知るための基本は木の事実なのだから。最悪のコメントは田中某という弁護士の暴言だ。判決文の全体を読んだ形跡さえ見られないのはいつものことだが、人間性のかけらさえ見えないのは、控訴されて高裁では極刑になるかのように語ったことだ。裁判の経緯も井上被告の人間的懊悩を知ろうともしない検察出身の弁護士が、サリン事件のイメージから検察側の立場に立つコメントをするのは骨絡みの権力的傲慢である。オウム特別立法が話題になったとき、何の根拠も示さずに「こんな法律できるわけありませんよ。破防法より難しい」などとニヤつきながら断言した醜類。その不明を恥じることさえない人間的誠実さに欠ける弁護士も弁護士だが、批判精神もなくその場限りの思いつきを発言させたままのテレビ局関係者の頽廃もまた厳しく問われるべきである。
 マスコミが流布した井上は「現場指揮官」という洪水のような報道。それを追認した検察の論告。しかし井上証言を自分たちの立論の柱にしていたのは検察ではないか!控訴するだけの材料もなく、ただただ組織の面子(実体は個人の面子なのだが)だけで行動する検察の愚行に対する思いは怒りだけだ。しかし問題はオウム問題取材に関わりながら「不透明な判決」などという立場である。「20年もすれば社会に出てくるんですよ」などという発言は、今回の判決が誤りだとでもいうのだろうか。死刑と無期懲役の間に終身刑を置くことは必要だと私も思う。だが井上判決に関わってそう発言するのなら、井上被告には終身刑が必要だと判断することになる。はたしてそれでいいのか。情緒的コメントで論点をそらしてはならない。
 私は一連の裁判が、本来ならばカルトについて日本社会がはじめて判断を下す重要な機会だと痛感している。坂本弁護士一家殺害事件で死刑判決を受けた岡崎一明被告の判決公判で、裁判長は、マインドコントロールは一般的定説がなく、量刑上は考慮しないという趣旨を示していた。これは無知からくる誤りだ。一般的定説はなくとも一般的了解はあるからだ。私は岡崎判決を聞いたとき〈ああこれではだめだ〉と落胆した。
 オウム裁判は日本の歴史上はじめてカルトに関する法律的判断が求められているという認識が裁判所には決定的に欠如している。それに対して、今日行われた判決公判では、限定付きとはいえ社会心理学としてのマインドコントロールの井上被告への影響が認められ、量刑判断の大きな要素となった。これは画期的だと私は思う。判決直後に浅見定雄さんと法廷廊下で立ち話をしたとき、浅見さんは「私もこんな判決の書ける裁判官にならなってみたい」と語っていた。私は全面的に賛同する。つまり一連の事件はカルト教祖である麻原彰晃がいなければ起こらなかったという基本的立場を見失ってはいけないということである。ただし、その基本理論は押さえながら、現実に起きた事件を事実に基づきながら現行法でどう判断していくのか。そのバランスが大切なのだろう。そういう意味で、今日の井上弘通裁判長の判決を画期的というのだ。
 判決文の構造を素直に見れば何がポイントかは高校生レベルの判断力があれば分かることだ。争点の一つは井上被告が地下鉄サリン事件の「現場指揮者」だったかどうか。その点について裁判長は本人供述、他の被告人供述を比較検討しながら、「客観的には後方支援あるいは連絡調整役」と判断した。しかし、「共謀共同正犯の責任を負う」から「被告人の刑事責任は極めて重大」「死刑を選択することは当然に許されるべきで、むしろそれを選択すべきであるとすらいえる」と断言している。しかし、量刑の事情において、マインドコントロール下にあった事実の重さを重視したために、極刑選択に「なお幾分かの躊躇を感ぜざるを得ない」という判断をしたというのである。
 私は井上判決に対する活字となったコメントすべてに目を通したが、その多く、とくに法律関係者の圧倒的な感想に日本で初めてのカルト裁判だという視点がすっぽりと抜け落ちていることに失望した。判決文にマインドコントロール問題が述べられ、それとの関わりで判決があるにも関わらず、こうした課題に判断を放棄した意見がいつまでもまかり通ること自体、オウム事件の歴史的意味がほとんど理解されていない日本社会の鈍感さの反映だと言わなければなるまい。私が『部落解放』誌で続けてきた福島瑞穂氏との「論争」(私の質問に正面から答えない以上、実態としては論争などになっていないのだが)が実りないものであった背景には、こうした多くの法律関係者の、現実から物事を考えない化石的思考があることがよくわかった。なかには暴力団などの組織犯罪になぞらえてのコメントもあったが、これもまた破壊的カルトの視点がない。組織犯罪一般とカルトとしてのオウム真理教事件とはまったく質を異にするのだ。カルト事件という核心を欠いたあれこれの評価が横行する現実こそオウム裁判の不幸なのである。
 

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