弁護士の山口宏さんと評論家の副島隆彦さんは『裁判のカラクリ』(講談社、2000年)という著書のなかで、オウム裁判の見方とともに、今後のあるべき見通しについて触れている。そのポイントをまとめると、@オウム裁判は刑事訴訟法を全面的に駆使して行われている稀な例である、Aしたがっていまのままでは麻原裁判が終わるまでには20年かかり、裁判に対する国民の信頼は失われることが予測される、B麻原裁判でもっとも注目されるのは、地下鉄サリン事件で麻原の「共謀共同正犯」が立証できるかどうかである、という3点。そこから出される結論は、最初から死刑と決まっている裁判の体裁を整えつつ、可能なかぎり早く判決を下すことだという。
つまりは17の事件で起訴されている麻原裁判のなかでも、、地下鉄サリン事件などの立証が難しい事件は公訴を取り下げ、坂本弁護士一家殺害事件など「共謀共同正犯」が立証されやすい数件に絞り込み、早く有罪判決を勝ち取り、さっさと絞首刑に、という意見だ。
地下鉄サリン事件に限っても、殺人、殺人未遂で起訴されたのは14人。7月17日にサリン散布の実行犯だった豊田亨、広瀬健一に死刑判決、送迎役の杉本繁郎に無期懲役の判決が下されたことで、1審判決が下されていないのは、新実智光(送迎役)、遠藤誠一、土谷正実、中川智正(いずれのサリン製造)、そして教祖である麻原彰晃となった。
麻原が首謀者であることは、起訴された17事件の他被告判決ですでに認定されている。したがって麻原こと松本智津夫に厳しい判決下されることは誰もが確信を持って予想していることだろう。しかし、山口宏さんと副島隆彦さんが書いたように、いまのままの麻原裁判では最高裁までには20年はかかることだろう。なぜならば、それは滝本太郎弁護士が強調するように、麻原弁護団は「刑事訴訟法を弁護している」からだ。しかもその根底には死刑廃止論への戦術的対応が隠されている。
国選弁護団の中心だった安田好弘弁護士は、死刑廃止論と裁判との関係を95年12月3日にこうあからさまに述べていた。
「現在の裁判所に死刑違憲判決を期待することは不可能である。そうすると典型的な死刑が予想されるケースでは、結局長く裁判を継続していく以外に方法はないのではないか。そういう視点を踏まえて、一審から着々と弁護する必要があるのではないか。そういうおおよその合意らしきものが形成されたわけですね。そして最高裁に係属している事件では、最初のうちは、国選から私選に変えるなどの方策をとることによって、弁論が大幅に延期することができたのです」(『「オウムに死刑を」にどう応えるか』、インパクト出版会、96年)
オウム事件の歴史性と残虐さから判断するに、麻原彰晃と名乗った松本智津夫の裁判が遅々として進まないことに疑問や怒り、憤りを抱くのはあまりにも当たり前の感情だ。弁護団の「本音」を聞けばさらに怒りを感じる人も多いだろう。したがって早く結論をとの声が高まるのもしごく正論だといえるかもしれない。だがここで冷静に考えなければならないことは、立証が難しいからと地下鉄サリン事件などを取り下げるべきかといえば、それは極端だといわねばならない。被害者とその家族の感情が許さないといった道徳的判断からではない。オウム事件を20世紀の犯罪のなかで位置づけたとき、私はヒトラー・ナチズムのユダヤ人大虐殺に匹敵する質を持っていると考えるからだ。
オウム真理教が麻原彰晃のもとで計画していたのはサリン70トン製造計画だった。それだけの量の製造と散布は実現しなかったとはいえ、その計画実行の過程で実際にサリンが製造され、松本サリン事件、地下鉄サリン事件が現実に引き起こされた。理論的に検討すれば、もし純粋なサリンが70トン撒かれていれば、日本人全員が絶滅していたことになる。まさしくハルマゲドン(世界最終戦争)の自作自演を行なおうとしていたオウムの核心的犯罪とその一環としての地下鉄サリン事件。この歴史的事件を日本の司法は避けることなく裁かなければならない。
今回の豊田・広瀬判決を読んでも、裁判官のマインドコントロール(社会心理学)への無知はおおいがたいものがある。日本で最初のカルト裁判にはこのように困難な課題が多いことも事実だ。ならばどうするか。裁判遅延を克服する現実的課題として、被害者のいない事件について公訴を取り下げることは現実的対応だろう。同時にカルト問題についての世論を高めることも重要な課題だ。20世紀末日本で起きたカルトの重大事件をどのように克服していくのか。裁判がその中心的事件から逃げることがあってはならない。