「福島瑞穂さんへの反論」

 ここに紹介するのは『部落解放』10月号に掲載された「福島さんに反論する」と題した原稿だ。編集部の同意を得たので、発売されたばかりだが転載することにした。社民党参議院議員の福島瑞穂さんとは同誌上で何度かやり取りを繰り返してきた。この原稿だけでは論点がわかりにくいかもしれないが、「時代を読む眼」でもかつて触れたので、関心ある方は参照していただきたい。オウムの存在を認めるのか認めないのか。その点については福島さんだけではなく、この問題に関わってきた人たちのなかでも大きな見解の相違がある。


 論争では、相手の主張に正面から答える努力をすることで、新しい事実を発見することがあるものだ。その結果として、たとえ意見が一致しなくとも認識は深まる。ところが福島瑞穂さんとの「やりとり」で明らかとなったことは、何一つとして具体的事実を提示することをせずして、埃のかぶったような法律書の結論だけを無理やり読めといっているような味気なさだけが残っている。これでは発展がない。
 福島さんは「論争のポイントは、団体規制法に賛成するか、反対するか」であって、事件の歴史認識を示せと私が聞いた「意味はよくわかりません」という。本気だとしたら驚きだ。まず驚いたのは、福島さんは政策(政治上の方針)とは何かが分かっていないのではないか。私は政策とは政党と国民とを結びつけるものだと考えている。個々の政策を立案するときには、その対象となっている課題をどう評価するかが出発点となることは「イロハ」の「イ」に属することだ。したがって一連の事件の根拠となっている教祖と教義をいまなお信仰の対象としているオウム真理教(アレフと僭称)が、事件の本質的反省と謝罪を行わず、いまなお平然と活動を続けているからには、それを規制することは―問題の根本的解決にはならないという大問題は残されたままだが―当然だと私は判断している。しかし、それに反対するのも一つの立場だ。ならば対案を提出しなければ政党の責任を果たしたことにはならない。骨の髄まで染み込んだ抵抗政党のままの精神でオウム問題の解決に対応できないことだけは明らかとなった。
 オウム真理教が行おうとしていた犯罪の質は、ヒトラー・ナチズムが行った人類への罪に連なるものだ。何度も言おう。麻原彰晃が製造を命じていたサリン七十トンが撒かれていれば、純理論的にいえば日本人全員が死亡していたことになる(私は前に三五〇〇万人と書いた。だが化学兵器の専門家である常石敬一氏に伺った結果このように訂正したい)。それに対して福島さんは教科書通りにこう答える。「近代法の当たり前の原則」として「危険な質」があるからといって、それで「思想・信条などの基本的人権を制限する法律を作ってはならない」「行為としてあらわれないかぎり、権利を制限できないのです」と。ここに問題があると私は主張しているのだ。福島さんは住民運動の前でそう主張してみればいい。前例なき現実を「原則」に閉じこめてしまう誤りともいえよう。
 オウム真理教問題とは、二〇世紀の世界史のなかでも特異な事件だと思わないのだろうか。「行為」として現れた信者たちは裁判で争われている、事件に関与していない信者は「思想・信条などの基本的人権」を守れという論理は、法律書どおりだとは言えるが、現実の新しい課題と大きなズレを生じている。
 福島さんや「オウム二法」に反対する人たちは「近代法」を絶対の基準に物事を判断している。だが国民主権の立場でオウムを監視し、批判を行う基本は、法律や政策よりも価値において高い普遍的人間の「法」なのである。日本人に成熟していないのは、この自然権的感情が普遍的権利意識に高まらないところにある。したがって私はいまの住民運動の過剰反応に―オウム側の対応に最大の責任があること、政府や行政が責任をもって解決する態度を取らない責任などを前提に言えば―問題があるがゆえに、普遍的権利意識の定着が必要だと痛感している。私の判断ではいまオウムをめぐる状況は「もろ刃の剣」なのだ。
 統一ドイツでは旧東ドイツ時代に「ベルリンの壁」で射殺命令を下した指導者の裁判が行われた。旧法時代の犯罪を新法で裁けるかという新しい課題に、連邦憲法裁判所は九六年に「実定法よりも正義が勝る」という判断を下した。ドイツの「闘う民主主義」の発露だ。日本でオウムに対して求められている精神も、教科書的対応ではなく、新しい事態に対応した「闘う民主主義」なのである。権力に対する見方も私は「機動戦」ではなく「陣地戦」(グラムシ)だ。必要ならいつでも答える用意がある。
 何度でも聞こう。「オウム二法」に反対する前提として、いまのオウム真理教は危険なのか、そうでないのか。福島さんはこの単純な質問に具体的に答えるべきだ。オウムはいまや「安全だ」というのならその根拠を示してもらおう。「危険な質」がいまも続いていると判断しても、行為として現れないかぎりはどうぞ自由に活動してくださいと言いきれるのか。こうした教科書的対応が地下鉄サリン事件にいたるオウムを育ててきたことを私は忘れはしない。そして福島さんの教科書的論理を首尾一貫するならば、社民党はいまこそオウムが訴えている観察処分取り消し訴訟を断固として支援すべきだろう。対象に対する具体的認識とそれに基づく行動があってこそはじめて政策は実現するのだから。福島さんからの具体的回答を再度求めたい。

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