三年をかけて執筆したという千三百枚の労作。著者の誠実さと突破した苦悩の跡が存分に込められた貴重な成果だ。島田裕巳氏は大著をこう締めくくっている。
「たしかに、孤独はつらく、苦しい。しかし、私たちは長い歴史を経て、さまざまなしがらみから解放され、はじめて孤独を得ることができた。オウムの人間たちは、その教祖を含め、孤独に耐えられなかったのではないか。私たちは孤独に耐え、その孤独を楽しみながら、自分の頭を使って、これからを考えていかなければならないのである」
ここだけを読めば情緒的な結論という印象を与えるかも知れない。だが、島田氏とオウムとの関係を少しでも知っている者ならば、次のような記述とともにこの著作の意味が理解できるはずだ。
「私のオウムに対する評価は、根本的にまちがっていたことになる。私は、オウムがテロリズムに結びつくような暴力性を備えていることを認識できなかった」「オウムをいかにして解体に追い込んでいくのか」。
島田氏は一九九〇年末から九一年末までの間に麻原彰晃と四回会い、テレビや週刊誌などでオウムを肯定的に評価してきた。そのために地下鉄サリン事件をきっかけとする洪水のような報道のなかで、かつての言動を批判されることになる。陰謀的だと推測される動きや、のちに裁判で確定した誤報なども絡み合い、結果として大学教員を辞めざるをえないところまで追い込まれた。その後の島田氏は、まさしく「孤独」な苦闘のなかで入手できるかぎりの教団刊行物を渉猟し、教義の変遷を緻密にたどりながら、なぜオウムがテロリズムに走ったのかを明らかにした。島田氏にとっての「一応の決着」だ。
麻原とオウムが変質する起点を、島田氏は八八年八月六日の富士山総本部道場開設だとする。その一か月ほど前、麻原はインドでチベット仏教の高僧カール・リンポチェと会い、ヴァジラヤーナの教えを知る。八八年七月二十三日の世田谷道場での説法が記録に残るかぎりの初出だ。この教えが「殺人」容認を肯定する説法となるのは八九年四月七日。「悪業」をなす者は「生命をトランスフォームさせてあげる」ことで、本人にとっては「プラスになる」と語っている。信者だった田口修二リンチ殺人直後のこと。あからさまな殺人容認の説法はこののちエスカレートしていく。殺人という事実を正当化し、実行犯の罪悪感をぬぐいさるために行った教義解釈のご都合主義ではないかという指摘は重要だ。そこからサリン事件という無差別大量殺人にいたるのはなぜか。島田氏は裁判での実行犯の証言などを比較・検討したうえで「お神輿としてのグル」という仮説を立てる。一人の死の隠蔽から無差別大量殺人にいたるまでの分析は謎解きそのものだ。
この著作の意義は現在のオウムの欺瞞を突き、オウム解体のために麻原を脱神話化することの重要性を提案しつつ、信者がオウムに魅かれる背景にある日本社会の現実を批判したことにある。私としては統一教会評価には異論がある。あるいは地下鉄サリン事件の起きる二か月ほど前の九五年一月二十五日にサリンプラントだった第七サティアン(シヴァ神像で偽装されていた)を島田氏が訪れ、「宗教施設だ」と語った経緯と責任にいっさい触れていないことへの不満などもある。だが私は島田氏が、『虹の階梯』でオウム信者に深い影響を与えたまま、いまだ黙している中沢新一氏と対照的な生き方を選んだことに共感する。