方法としての藤原新也

 濁世を生きているうちにいつの間にかこびりついている膜のようなものがある。「精神としての身体」(市川浩)を蔽っている薄い膜状のもの。いったいこれは何だと立ちどまり、眼をこすったり、振り払おうとする動作があればまだ救いがある。眼前の事物や風景、人間の営みや社会事象などの森羅万象、有象無象。幾重にも重なった不透明な膜を通していてはその実相が実は見えていない。見れども見えず。歪んだ像を実像だと思い込んでいる安逸の精神は不幸への道だ。さてどうすればいいのか。

 「世間の観想者」を自任する藤原新也さんのフィルターを通していちど世界を見つめてみることだ。二一世紀初春からの一年間。同じ街を歩き、同じ風景をまなこに捉えていても、認識眼とでもいうべき機能の違いは「これほどまでか」と驚かされる。この内容も装幀も色鮮やかな仕掛けも充実した一冊は、藤原さんがそのときどきに観想してきたホームページ上の思索をまとめたものである。眼力のどこが違うのか。それは藤原さんが「小さな生まれ変わり」をたえず繰り返しているからだ。

 「熊がうらやましい」と藤原さんはいう。動物の熊である。何か月もの冬眠から覚めると、きっと春の山々は桃源郷のように見えるだろうから「うらやましい」。そしてご自身も「心身の再生の儀式」のため年初にいつも冬眠をしている。二〇〇二年の眠りは予定より早く目覚めたそうだ。冬眠をすれば「世の中の景色というものはこよなく美しく新鮮」に映じるという。「倫理や、論理を越えて、私(注、藤原さんのこと)の中にあるこの美意識」で見すえる世界は偽善や欺瞞、詐術やトリックの薄膜など難なくひっぺがしてしまう。冬眠ができない者としては、安直だがこの新刊を「体験として」読むことで、いささかでもおのれの歪みを補正したいものだ。情報の「豊富さは人間から繊細さを奪いとる」。「方法としての藤原新也」である。

 藤原さんの名著のひとつに『東京漂流』(一九八三年刊)がある。『FOCUS』創刊号から連載し、企業広告の扱いをめぐって休載となった同名のフォトエッセイ。その顛末もふくめて書き下ろした時代観察記だ。大宅賞を辞退したことでも話題となった。そのなかで五年後の連続幼女殺害事件の発生を予言していたことを思い出した。のちの新聞原稿での表現を紹介しておけば、「身体性が奪われていく」ことへの「生理的危機感」と「遊戯性」の結合による残酷な犯罪の発生だ(『新版 東京漂流』)。そう、藤原新也さんの嗅覚と眼差しは、時代の深層に食い込むだけではなく、その行方をも暗示してきた。

 「ちょっとそこのあんた、顔がないですよ」

 藤原さんの『メメント・モリ』(八三年)の冒頭ページに大きく記された言葉だ。このフレーズが眼に入ったとき深い衝撃を受けた記憶がある。文字による奇襲。藤原さんの著作にはページを繰るうちにいきなり襲ってくる警句や写真があちこちに潜んでいる。「ユニクローン」というタイトルのわずか十二行の文章に再録されたこの言葉は、いまや黄昏ニッポンの現実となってしまった「無意識の制服化現象」を見事に暴きだしている。あの「ユニクロ」製品が単一アイテムで数千万も売れる現象は、「クローン」に連なっているという視点。しかし、いまや「顔がない」のは個人だけではない。群衆もまた「顔がない」。藤原さんは警告する。

 「くれぐれもあんたの隣のユニクローン人間に汚染されないように」

 服装だけではない。顔つきや化粧、いや言葉までが制服化しつつあるいま。そんな現実を作り上げるマスコミの罪。そこに向かって頂門の一針をスコーンとツボに打ち込んだのが本書でもある。朝のワイドショー司会者が「最も重要な局面でコマーシャリズムというものを背景とした虚偽の言葉を吐く」ことへの厳しい疑問。そのkエッセイのタイトル「目に見えず、耳に聞こえず、通りすぎる不実な言葉が、日々子供の心に根腐れを起こす」と「逃げるオヤジ」を論じたのは、あの池田小学校事件の宅間守とその父親の問題から見た「父性の不在」論だ。「また将来この種の事件を生む」原因の指摘である。

 堅固に見える情況を不安にいざなう有効な武器としての小さなものへのこだわり。たとえば猫だ。カラフルでユニークな「丸猫」=「斉藤」は、べろりと舌を出したまま、カバーにもグラビアにもデンと構えている。この実在の「斉藤は雌猫の小林に惚れた」。しかし「小林」をめぐって起きた闘いで「斎藤」は敗北をきっする。それでも諦めはしない。藤原さんが「斉藤」の傷だらけの顔を思い出すことでこみあげてくるものがあるのは、弱き者の闘争心に共感したからだろう。

 その「斉藤」が見開きグラビアで迫ってくるイラストを何度も見ていたら、藤原さんが本書で言及している三毛猫を抱いた「ビン・ラーディン君」のたくらみが浮かんできた。あくびをする猫を抱いた姿がアメリカ首脳陣の危機感を募らせるだろうという藤原構想だ。

 マスコミから本音が失せていくいま、インターネット世界を通じたリアルタイムの情報戦でどこまで闘えるのか。深く潜行し、必要とあらばいっきょに浮上して「敵」中枢を正確に撃つ。藤原さんの新刊は、電脳ゲリラ宣言でもある。「状況が厳しければ厳しいほど人間はユーモアを忘れてはならない」「戦争を批判するにしても、がちがちに硬直した批判は危険である」。藤原哲学は「戦争」にも日常生活にも有益なのである。

 ところで気になるのは「斉藤」だ。いったいどこを彷徨っているのか。現実だけではなく、ホームページ上からも姿を隠して久しいヤツの雄姿。ネットでの再会をせめて期待したい。

       (『空から恥が降る』、文春文庫解説)

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