テレビ局の廊下で松たか子とすれ違ったことがある。かすかな微笑み。その全身を輝きが覆っていた。多くの俳優や歌手をこの眼で見てきたが、彼女ほどの高貴さをたたえた人を私は見たことがない。「輝き」と書いたが、正確にいえば「オーラ」というものだ。「ある人や物が発する、一種独特な霊的雰囲気」(『日本国語大辞典』)である。何が「オーラ」を発散させるのか。それは才能や努力や運などといった俗世の次元をはるかに超越した生来の属性だ。時代の波頭に立つことができるこの世でたった一枚のチケットを天から授けられた存在。いま彼女の勢いにかなう者などそうはいないだろう。
その松たか子が座長を務める舞台とあって、若い男性客が目につく初日だった。一幕のはじまり。花道から松が姿を見せたとき、大きな拍手が客席に広がっていった。彼女が演じるキャサリンへの期待でもある。岡本健一が演じるヒースクリフトとの天真爛漫なシーン。その愛情が憎悪に変わり、融和へと昇華する人間物語。暗転を象徴する激しい雷鳴。若い才能を支える梅沢昌代(ネリー)と斎藤晴彦(ジョゼフ)のやりとりだけでも独自の世界を形成している。存在感とはこうした役者の演技をいうのだろう。こころを逸らさないキリッとした展開だ。
十九世紀にイギリスで書かれたエミリー・ブロンテの「類いまれな驚くべき書物」(モーム)『嵐が丘』。二十一世紀の日本で舞台化する試みそのものに脚本・演出を担当した岩松了の高い志が現れてる。ところが岩松によれば、新橋演舞場公演に『嵐が丘』を提案したのが松たか子その人だという。その感性に私は驚き、そして納得した。時代がどんなに変転しようとも、人間の本質に変わりはないことを、この舞台が生き生きと表現しているからだ。
「ああ面白かった」。幕が降りたときの素直な感想だ。松たか子の振りまいた「オーラ」のかけらは観客とともにいまもあることだろう。なぜそう思うのか。それは私の記憶にキャサリンを演じる松たか子の姿がくっきりと焼き付いているからだ。大正十四年に開場した新橋演舞場。平成十一年の正月公演で最年少座長を努めてから三年。いまだ二十四歳の松たか子は、いったいどんな天涯にたどり着こうというのだろうか。