人間の身体には時間感覚が備わっている。私たちが時計などを見なくとも時間の経過をだいたい判断することができるのは、生活のなかで獲得された後天的能力が身についているからだ。
ところがだ。「新・三国志 孔明篇」は、時間の流れを心地よく撹乱させる。細かく計算された見せ場の背景にあるのは円熟した演出の妙だ。ダイナミックな立ち廻りにしぶき散らす爆水の怒流、大火が上がれば宙乗りもある。あるシーンが高揚から収束へと向かったその瞬間には次なる展開がはじまっている。意識がいつのまにか呑み込まれているのだ。気がついたときにはすでに一幕が終っているという驚きである。
この十六年間、スーパー歌舞伎がずっと気になっていた。一九八六年に「ヤマトタケル」が話題になったとき、私の関心は梅原猛さんの台本にあった。日本人でありながら、なかなか歌舞伎などの伝統芸能に関心が深まらなかった不覚。それが「ザ・ワイド」というテレビ番組に関わるようになり、テーマとしての歌舞伎を入り口に役者という職人芸に興味は向かった。そう、市川猿之助さんなのだ。
猿之助さんの演技には誇張や力みがまったくない。もちろん演者として台詞を語っているのだが、諸葛孔明になり切った猿之助さんがそこにはいた。いや「なり切った」というのも正確ではない。静かなたたずまいのなかにも凄まじさがある。舞台には諸葛孔明に憑依された市川猿之助さんがいるのである。
「ヤマトタケル」を梅原さんが書くと伝えたとき、猿之助さんはこんな注文を出している。
「従来の歌舞伎の面白さに加えて、シェークスピアの台詞とワーグナーのスケールの壮大さ、そういったものを兼ね備えた作品を書いて下さい」
こうしたスケールの大きさがスーパー歌舞伎の精神なのだろう。それから八作目に位置するのが今回の作品だ。京劇で途絶えた立ち廻り専門の女方「武旦」(ぶたん)を登場させたという貴重な文化の復活。見どころのひとつでもある。
この「凱旋アンコール公演」が終れば、昨年と合わせて三百七回の上演を数えることになる。まさしく偉業だ。