宇崎竜童
 金が仇の世の中で
 夢を追う奴あ莫迦なのか
 固めた拳は口より早いが
 無駄なジャブよりストレート
 ロックンロールの引金引けば
 弾ける弾丸8ビート
 闇撃ち 不意撃ち 狙い撃ち
 矢でも鉄砲でも持ってこいー
宇崎竜童さんのアルバム「FROM ASIA」
  宇崎竜童がはじめて本格的に監督した映画−『魚からダイオキシン!!』(内田裕也脚本・主演)。その内容を宇崎流の言葉で連ねれば、こんなテンポの表現になる。

 強烈な個性と存在感を持った監督と主演俳優。その名前を並べてみるだけでも「男くさく」「突っ張った」映画の匂いが伝わってきそうだ。そのうえ出演者にビートたけしや横山やすしといった「過激」な面々の名前を見つければ、その迫力はいやがおうにも増してくる。

 「ロックの精神は時代を見すえること」−こういう宇崎の「哲学」が「ロックの映画をやりたい」という内田の願いにぴったり重なった。「プライベート・フィルム」だというとおり、彼らが何に腹を立てているのかがよく分かる。まさしく「無駄なジャブよりストレート」「矢でも鉄砲でも持ってこいー」という映画だ。

 拳銃を持った内田が、いまでは株や不動産、麻薬取引にまで手を出してロック界を牛耳っているかつての仲間に、「ロックを捨てたブタなんか撃つ気にもならねえ」という台詞を荒々しく投げつける。

 ショービジネスに流れる生意気なロック歌手が、内田にこれでもか、これでもかと殴られる。なにしろ「そっくりさん」だから、宇崎や内田が「彼」に象徴されるものを、思いの丈を込めて殴りつけたいという「気持ち」だけはよく分かる。

 だが、「ロックを捨てたブタ」が儲け主義に走る音楽業界の現実を指しているのだろうとは思いが及んでも、どうしてほかでもない「彼」が殴られなければならないのだろうか。

 その理由を探ることは、サングラスをはめ、ツナギスタイルで突っ張ってきた宇崎竜童が、ある時期からそのスタイルを自ら投げ捨てたこの二十年間のロックンローラー生活を見詰めることでもある。

 最近、ロックの専門誌がインタビューを受けた宇崎に「ひどく嫌いなもの」を項目だけ書けといってきた。「思うがままに書いてみた」という彼の心には、次々に「嫌いなもの」が浮かんできた。

 もの欲しげなおんなども、トレンディ・ドラマと称する白痴番組、フォークソングあがりのロック歌手、誇りのない政治家ども、理屈だけで実行しない文化人ども、商売本位の音楽業界システム、現在を楽しむことをしない人間ども……。

 「フォークソングあがりのロック歌手」といい「商売本位の音楽業界システム」といい、『魚からダイオキシン!!』で強烈に否定する事柄が、ここでも宇崎らしい自己主張として徹底して叩き落とされている。

 宇崎の中のどういう心情がこれほど強烈な主張となって、彼なりの「論理」や「倫理」に昇華して行くのだろうか。宇崎は最近こんな体験をした。

 ある日、テレビを見ていると、渋谷のハチ公前でリポーターが若者たちにインタビューしている場面が放送されていた。

 「いま、あなたが欲しいものはなんですか」

 こういう問いに、ある者は海外旅行をあげ、ある者はベンツやBMWの自動車、またある者はシャネルのアクセサリーやブランドものの洋服をあげていた。

 「なんだモノばっかりじゃないか」

 うんざりしながら見ていた宇崎は、日本に来ている留学生にマイクが向けられたとき、その答えが日本人とはまるで違っていることに驚かされた。

 「平和な地球が欲しい」「戦争をなくしたい」−こういうスケールを異にした回答が何のためらいもなく当たり前のように出てきたからだ。

 「夢のスケールが違うなあ。どうして日本人はお金さえあれば手に入るモノしか信用していないんだろうか」

 その理由を考える宇崎の心には若者たちの間でも最近もてはやされてる「トレンディ・ドラマ」と呼ばれるテレビ番組が「モノ中心社会を作った」一つの象徴として浮かんできた。彼はこう説明する。

 「作り手の大人がこどもだましをしているんですよ。男と女の付き合い方を『こんなの素敵でしょ』って、ある種の空想で提示して視聴率を取っている。音楽の分野でも女学生に受ける歌とかあるけど、『悔しかったら作ってみろ』と言われれば、そんなのいくらでも手はあるぜって。商売になりやすいからって次元が低いぞって。そんなドラマや映画、メロディー、詞を作れば買ってくれるだろうと分かってるけど、ぼくはそのツボを外し続けてきたから……」

 宇崎が強がりを言っているのではないことは、「ツボを外し続けて」た彼自身の人生が何よりも雄弁に語っていることだ。

 「アンタあの娘の何なのさ」のセリフが小学生にまで大流行したのは一九七五年のこと。漢字もまだ読めないほどのこどもから、飲み屋でクダ巻く大人までが「アンタあの娘の何なのさ」とやっていた。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドが結成されて三年目のことだ。

 渋い台詞が語られる「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」というタイトルが決まったのは、宇崎やその妻で作詞家の阿木燿子が明治大学を卒業した一九七〇年頃だった。

 横浜で生まれ育った阿木がこたつに入って一行また一行と詞を付けていく。やがて完成した詞に宇崎が曲を付け終わるまで、さらに一年以上の時間が必要とされた。バンドの正式結成が七三年四月だから「ヨーコ」の運命はこの時いまだ決まっていない。

 西洋から流れて来たロックを日本語で歌いたい−これがダウン・タウン・ブギウギ・バンドの音楽的な目的だった。

 しかしバンドを結成したからといって、それで売れるものでもない。六月半ばから夏が終わるまで、ビアガーデンで三十分のステージを一日六回はこなしていた。その年十二月に「知らず知らずのうちに」でレコードデビューするが、まったくの鳴かず飛ばず。

 そんなとき熱海のホテルで一ヵ月の仕事が入ってきた。客は温泉に来ている観光客だから「熱海の夜を歌え」などとリクエストしてくる。

 宇崎たちにしてみれば「俺たちはロックをやっているんだ」という意識だから、そんな音楽に反発心しか感じていない。「そんなもの歌えるかよ」とステージの上から答える。「じゃー表へ出ろ」となって客としょっちゅうもめていた。ホテルのマネージャーが「客の歩く廊下を歩くな」と言えば「なんだこのヤロー」と血気盛んなころだった。

 売れないモノだから七四年の夏もビアガーデンで働いた。だがこのバンドが「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などの大ヒットで売れるようになってくると、自分たちがやりたい音楽とファンの要求がズレはじめた。「以前売れた曲をやってくれ」という求めに応じて演奏していれば、客も入るしレコードも売れる。そんな「ぬるま湯」状態を自覚し、姿勢を正そうとしたのが七九年だった。

 八〇年に入り、バンド名に「ファイティング」を加え、過去のヒット曲をふくめ、それまでの百五十曲を演奏しない、ツナギを着ないと決めた。宇崎なりの「闘争宣言」だった。しかしファンというものは実体のない浮気なものだった。

 琵琶湖で行われた「一万人コンサート」には二十五人しか集まらなかった。銀座にあるハワイアンジャズ喫茶では、ステージに四人いるのに、客席には二階に女性二人だけということもあった。それでも自分たちが信じているロック精神を捨ててまでして商業主義に走りたくはなかった。

 やがて「ぬるま湯」状態は乗り越えたものの、メンバーの音楽に対する関心が違ってきたことをきっかけに八一年解散。三年間のソロの時期を経て八四年に竜童組を結成。

 それまでにも劇作家のつかこうへいが企画して「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 昭和を歌う」というステージを持ったこともあった。大嫌いで聴く気にならなかった美空ひばりの全曲集をそのとき聴いて「すげえな」と涙を流した自分が、何かを確認したかったこともあるだろう。やはりダウン・タウン時代に「曽根崎心中」をロックに変えた面白さをもっともっと体験したかったのだろう。和太鼓など日本の伝統的なものとロックとがぶつかり合うと、どうなるか。こういうダウン・タウン時代からの宇崎の「実験」を竜童組で開花させようとした。

 ロックというスピリットを持ちながら、スタイルとしてはクラシック、ジャズ、黒人音楽、日本の音楽などジャンルを超えた音楽を追究した。実現こそしなかったが、メンバーに黒人やフィリピン人、韓国人などが入る「無国籍バンド」にすることも考えた。しかし竜童組もそれぞれのメンバーのやりたいことをしばらないため九〇年十二月に活動を停止した。

 宇崎は「ちゃんとノリがある日本語のロック」を理想としてきたが、どうやらそれは「人のその時々楽しまなくては」という彼の人生観にも通じているようだ。それは自分たちの演奏に足を運んでくれたお客たちを楽しませることと裏表の関係でもあった。ダウン・タウン結成時代のこんなエピソードがある。

 七五年七月五日、宇崎ははじめて沖縄でコンサートを開いた。あいにくの篠つく雨の中、沖縄の若者たち二千五百人が那覇市営体育館に足を運んだ。南の開放的な島だからみんな本土以上に燃えるだろうと思っていた。

 サングラスにツナギ姿の宇崎が叫ぶ。

 「みんな、どんどん前に出て踊ってくれ! 俺たちもギンギンにツッパルから、みんなも遠慮せずに大騒ぎしてくれ!」

 ところが場内は静まり返ったままだ。宇崎はショックだった。七六年一月の二回目、八月の三回目のコンサートも同じだった。そして十月に「沖縄ベイブルース」発表パーティがあった。そこではじめて観客が宇崎のよびかけに応えて燃えた。宇崎たちはフロアへ降り、観客の中で踊り、かつ演奏した。

 沖縄の若者がはじめ燃えなかった理由は分からない。しかし、宇崎にとってロックは「ノリ」と同意語だった。「どうしていまを楽しまないのか」という人生観からすれば、「ノリ」と喚起し得なかった自分にただちに跳ね返ってくる。

 阿木燿子はそのときの宇崎の「いらだち」は「お客さんを楽しませてあげられなかった自分にいらだったんでしょう。あれだけ人を喜ばせることにエネルギーを費やす人は珍しいから」と考える。

 いまの宇崎が「ひどく嫌いなもの」の一つに「現在を楽しむことをしない人間ども」をあげるとき、彼のモノサシにはこうしたロック精神が基準にある。

 「ぼくはいまがいちばん大事だと思うんです。いま自分がやっている仕事が嫌なら辞めればいいし、好きならきちんとやればいい。状況、社会のせいにしてはいけない。遊んでいるときは遊ぶことを楽しめばいいと思うんです。仕事をしていたら仕事を楽しめばいい。仲間といるときは仲間といることを楽しめばいい。それをどこも楽しまないというか、それで明日のことを心配して別のことを考えている。心が違うところにあるっていうのは、全部に嘘をついていると思う。その瞬間、瞬間にフラットな気持ちで身を置かなくては」

 こんな精神で二十年間ロックをやってきた。だから、たとえ売れなくても、「瞬間、瞬間にフラットな気持ちで」自分がやりたいことをやってきたという自負がある。そんな生きざまから見れば「フォークソングあがりのロック歌手」や「商売本位の音楽業界システム」は「水と油」、いや「天敵」ほどの存在に映る。

 「ハングリーだとかレジスタンスだけがロックだと思わない。スタイルの問題ではないんです。平気で衣替えできることがまかり通っているのが嫌なんです。美学っていうものがないんですよ、商売になれば転ぶというのは。この前まで立正佼成会やってたのがオウム真理教やったり幸福の科学に入ったりするわけですから。筋とか仁義とかあるはずなんですよね。獣道みたいなところを鎌持って歩いていた人たちがいるのに、そんなことを無視して俺がいちばんだみたいな顔をするわけですから。その方が商売になるという音楽業界ですからね」

 「フォークソングあがりのロック歌手に個人的恨みは全くないが、最近の象徴として映画でも取り上げた」というのだ。こんな話をしている最中に、宇崎の口から何度もこんな言葉が漏れた。

 「厳しいことを言うのも、ほっておけば自分も傾いじゃうところがあるからなんです。自分が本来持っている弱点、欠点にイージーになるとダメになることがよく分かる。本来自分にないものに引き上げて行く。そのためには音だけ出している単なる音楽バカに自分をとどめておけない。だからちゃんと世の中のことも見なくちゃいけない。臭いものにもフタをせずに、地獄のフタまで開けてやれという考えがあるんです」
 こんな思いを衝撃的に感じたのは、やはりまだ売れないダウン・タウン時代のことだった。

 当時、いちばん割のいい仕事は米軍キャンプで演奏することだった。宇崎たちが通った御殿場のキャンプからは、カモフラージュした爆撃機がベトナムの戦場へ直接飛んで行っていた。このキャンプは将校用ではなく、兵士たちはカマボコ兵舎やテントで寝泊まりしていた。

 いつ戦地へ飛ばされるか分からない。だからキャンプは殺伐としていた。平常心でいることは恐怖につながっていく。兵士たちは酔っ払ってしょっちゅう喧嘩していた。演奏していてもつぶしたアルミ缶が飛んできた。

 オリジナル曲に誇りを持っていた宇崎たちは、日本語のロックばかり演奏した。日本語の歌など聴けるかという兵士たちと何度も険悪な雰囲気になった。

 そんななかでもサンタナの「サンバパーティ」だけは兵士たちと共有できる曲だった。十五分ぐらい同じ曲ばかり演奏し終わると、会場から「サンタナ サンタナ」という掛け声が起こる。ほかに出来るものがないので、全ステージをサンタナで費やしたこともあった。

 兵士たちのなかにはギターを弾かせてくれといってステージに上がってくるものもいた。演奏が終わってから二、三人の十代の兵士が「ちょっと俺たちのところに来ないか」とテントに連れていってくれることもあった。腹が減っても何も買えなかった宇崎たちにドルと円を交換してくれたり、家族や恋人たちの写真を見せてくれた。

 ところがステージから「また来てるな」と思って見ていた彼らが、ある週になるとパッといなくなってしまう。兵士と仲よくなっても、そんなことがしばしばだった。前線に飛ばされているのだ。「わー、俺たち平和にロックンロールをやってるけど、あいつらこんなに若くて、ひょっとしたら弾に当たって死んでるんだろうな。キツイぜ」

 戦争の恐怖を肌身で感じたのはそのときだった。学生時代にノンポリだった宇崎が、その後の音楽活動や現在のものの考え方に大きな影響を受けたのはそんな経験からだった。

 ダウン・タウン時代以前の宇崎には、内面では自信があっても、それを強烈に表へ出せないもどかしさがあった。たとえば高校を卒業するとき音楽学校に行かせてほしい、と頼んだことがある。すると父親は、
 「何を考えてるんだ。明治大学に行かないつもりか。どうして附属に入ったんだ。おまえ音楽家やるつもりなのか?」
 と聞いてきた。

 そんな問いかけに、音楽家として生きて行く自信がなかった宇崎は「サラリーマンをやります」と答えた。本当は芸能プロダクションや音楽出版の仕事をやりたかったのだが、両親がヤクザな仕事だと思っているだろうからと、とても口には出せなかった。

 明治大学では軽音楽部に入り、デキシーランド・ジャズをはじめた。一年から曲を作っていたが、「聴いてみたい」という姉たちの前で演奏したら、一言、こんな感想が返ってきた。

「ふーん、つまんない歌」

 そう言われても「俺には才能があるんだ」と思い続けていた。四年生になってから、いつかは作曲家になりたいと思うようになった。シンガーになるにはテレビやステージに上がれるだけの「見た目」に自信がなかったから「裏方」の仕事ならできるのではないかと思ったのだ。

 「宇崎竜童」というペンネームを知り合いの易者に相談して選んだのはダウン・タウン結成のころだった。「竜の子が宇宙を駆け巡る」という壮大な意味にこそ、当時の彼の「闘争精神」が満ちあふれていた。

 宇崎竜童という名前を得た人間がツナギを着てサングラスをかけ、マネージャー時代などの下積み生活のしがらみから吹っ切れた時、そこには徹底してロックに「ノル」新しい人格が誕生した。

 やがてツナギを脱ぎ、ダウン・タウンの解散をきっかけにサングラスを外した宇崎に「もう一人の人格」は消えた。「宇崎竜童」というペンネームを持った木村修史は、宇崎竜童そのものになったのだ。

 阿木燿子は「大人になったということじゃないかしら。自然体でいれば人がそのまま見てくれることを知ったんだと思います。いまはこれまでの音楽活動を総合する時期にいて、タフで完全燃焼する本質は変わってはいませんが、余分なものをそぎ落としながら、彼なりに美しく年を重ねてきている」ともっとも身近で見ている。

 「ほっておけば自分も傾ぐ本来持っている弱点、欠点」は宇崎自身が骨身に染みて自覚している。しかしそれに「耐える」というのでは全くない。阿木燿子がいうように「自我はあっても、逆境やみじめさを感じる自意識が少なく、時代の波や風に常にしなりながら生きている」人間なのだ。天性の楽天家なのだろう。

 泣き言をいわず、落ち込まず、「弱点、欠点」を内面に押しとどめようとする力が宇崎竜童には無理なく働く。その力が増すほどに、外には「突っ張り」や「男らしさ」として映るのだろう。それが宇崎の徹底した美学なのだ。

(『サンデー毎日』92年3月22日号)

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