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石堂 清倫
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東京の池袋から埼玉県に延びる西武池袋線の清瀬で降り、五分も歩くと木々の新緑が萌え、小鳥のさえずりが心地よく耳をくすぐる。
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住宅地に入り、目印となる幼稚園を右に曲がる。二階建ての家並みを突き当たったところに小さな平屋建ての家がある。狭い門柱のすぐ向こうには、小さな池を真ん中に、赤いツツジやピンクの花ズオウが咲く庭がある。
いまや皮肉な形で世界中に話題になったマルクスやレーニン。この思想家にして革命家の理論を日本に翻訳、紹介してきた石堂清倫が、一九五四年以来ここに居を構えている。
八八歳(九二年当時、現在は九六歳、以下同じ)になった石堂は、毎朝七時に起き、週三回の腰椎治療のための整形外科通いと毎日の庭掃除以外は、床に就く午後十一時まで、絶えず本を読み、考える生活を規則正しく続けている。
石堂がいま翻訳しているのは、ゾルゲ事件で知られるリヒアルト・ゾルゲの日本問題に関する論文だ。昨年がゾルゲ処刑五十周年で、その記念論文集がこの秋に発売される。仕事を進める場は、寝室の一角をカーテンで隔てた「書斎」で、机の右側には若い男性の肖像写真が掲げられている。
この男の名前は西田信春。旧制一高から東京大学に進み、一九二〇年代当時の学生運動を担った新人会で石堂とともに活動、のちに二年間の共同生活をした同志だ。共産党九州地方委員会を確立するため福岡に行き、三三年福岡県警に拷問され三十歳で虐殺された。写真は西田の旧制一高時代のものである。
この写真のさらに右に掲げられた額には、そううまいとは思えないが奔放な字でこう書かれている。
「蕾めるものは
花さかむ
花さきたらば
実とならむ」
「なかの しげはる」と署名がある。
金沢の旧制四高時代以来の生涯の友人だった作家の中野重治(一九〇二年生まれ、七九年没)が、友人の娘の結婚式に、金がなく贈り物ができないからと一晩考えて書いた詩だ。拡大され自然石に彫りつけたものが福井県にある中野重治記念丸岡町民図書館の入り口に飾ってあるが、その拓本が石堂の「書斎」にもある。
石堂が精力的に翻訳し、戦後日本の左翼運動に大きな影響を与えたマルクスやレーニンの数々の論文。そして石堂の自由な精神を励まし続けた二つの額。そこに資本主義国で最大の勢力を誇ったイタリア共産党(九一年二月に左翼民主党と改名)の創始者で、先進資本主義国の革命路線に示唆を与えると評価されるアントニオ・グラムシ思想の翻訳という仕事を加えれば、石堂清倫という人物の強靱かつ柔軟な骨格が見えてくる。
たとえこの世からマルクス主義者がいなくなったとしても、最後の一人のマルクス主義者でいたいという石堂の人生。その生き方は現代人にとっては流行らない「化石」のようなものなのか、それとも……。
戦後左翼運動のなかでの石堂の位置を象徴する一冊の新書がある。『スターリンと大国主義』と題した本の著者は、日本共産党の不破哲三委員長。その注記にロイ・メドヴェーデフの『スターリンとスターリン主義』が紹介されている。だが、その訳者である石堂の名前は記されていない。ここに共産党と石堂との冷たい関係が如実に現れている。
戦後、中国から日本に帰国した石堂は友人の経済学者である堀江邑一の紹介で、共産党本部のマルクス・レーニン主義研究所(ML)で働くことになった。責任者は中国の延安から帰ってきた野坂参三(のちに日本共産党議長、九二年十二月除名、九三年没)。ある日、野坂に会ったとき、
「私は三・一五事件の二審で組織運動をやらないって言って明らかに転向した。党活動に復帰するのは自分でもひっかかるし、党のほうでも問題があるだろう。自分の考えていることを話すからいっぺん聞いてもらいたい」
と話しかけた。ところが野坂は、
「そんなことはどうでもいい。党に帰るだけでいいんだ」
とあっさりと言ってのけた。石堂はありがたいようだが、がっかりした気持ちが今でも忘れられない。どうでもよくはあるまい、再出発に当たってはいろいろ解決しなければならない問題があると思ったからだ。マルクス主義者として「転向」という体験が思想的・倫理的に重く心にのしかかっていた。
MLでは党員理論家たちの自主的な研究と政治局との矛盾に悩まされた。ときどきの政治方針に理論研究が従属させられたからだ。その最大の矛盾が徳田綱領と呼ばれた五〇年綱領草案の扱いだった。当時、徳田球一書記長らは、コミンフォルム批判とGHQの弾圧をきっかけに地下に潜っていた。
MLの各部会で意見書を作ったところ、すべて徳田綱領に反対だった。それを謄写版で印刷して臨時の指導部に持っていくと「よけいなことだ」と言われてしまった。
石堂が清瀬にある地区委員会に離党届を出したのは六一年八月四日。突然のことではなかった。四九年暮れから五〇年ころ、石堂はある理論会議で平和運動をふくむ一般の民主主義運動が重要な役割を持つと発言した。するとすぐ政治局や志賀義雄政治局員(一九〇一年生まれ、一九八九年没)から個人的に呼び出され、平和問題は重要であっても、戦略に従属する戦術にすぎないと批判され、戦略にかかわる発言は規律違反になるから注意せよという。
離党届を出したのは、イタリア共産党の構造的改良論を日本に紹介することをきっかけにしている。この理論の紹介が実質上綱領論議になり、そのなかに党の政策の批判がふくまれ、しかも分派活動ではないかと査問されたからだ。活動者会議に行くと「反党分子!」「社会党と内通する分子!」などと指差されののしられるのはしょっちゅうだった。このころから戦後の党に違和感を感じはじめた。
戦前の党が自分の家にいるようであったなら、いまや他人の家にいるようだと思った石堂は、分派などではないという詳細な意見書とともに離党届を出した。後日、党に残った知人から、石堂は六二年十一月に除名になっていると東京都の党の内部文書に書いてあると知らされた。最高の処分であるにもかかわらず、それから三十年、本人の「弁明」の場が持たれていないことはもちろん、いまだに除名通知も届いていない。
石堂清倫は一九〇四年四月五日に石川県松任で、県立農学校の獣医畜産の教員をする父と母との間に生まれた。姉、弟、妹二人がいて、生活上は長男だが、幼くして亡くなった兄がいたので、戸籍上は次男になっている。
小学校六年の頃、農学校の獣医科が廃止されることになり、父親は五十歳代で失業。一九一七年に小松中学に進学したが、教科書や学用品で新しいものを使ったのは一年生の時だけだった。
経済事情が厳しく、二年からは学用品は知人のお古をもらい、教科書は火事になった本屋から水でぐしょぐしょになったものを拾ってきて使った。この水分を吸ってごわごわになった教科書を使うのは子供心にもつらかった。ノートも全部の教科を一冊で使い、小さな字でぎっしりと埋めるようにしていた。
三年生のある日、父親が聞いてきた。
「そろそろ修学旅行ではないのか」
学校の教師をしていたから、行事の季節を知っていたのだ。石堂清倫は答えた。
「終わっちゃった」
父親にわずかな恩給はあったものの定収はない。酪農をしている教え子の家で乳質検査などをして口を糊する暮らしが続いていた。一家の経済状況はどん底、とても永平寺への修学旅行など言い出せるものではない。
石堂清倫は小松中学時代にその後の人生行路を方向づける体験をした。入学する二年前に作られた「春辺会」という理想主義に燃えるサークルと出会ったことだ。当時の世相だった拝金思想に反発する者たちが三十人ぐらい集まって、一ヵ月に一回、先輩たちの話を聞いたり、ハイキングに出掛けたりした。
東京の思想風潮を教えられた。マルクスが『共産党宣言』の結びとした「万国のプロレタリア団結せよ!」という文章をドイツ語で読んだのも「春辺会」でのことだった。
中野重治の存在を知ったのも小松中学のときだ。中野が金沢にある四高に入学したとき、高校は総合入学試験制で、どこで試験を受けても行きたい学校を選択できた。中野はこの試験で全国トップだったが、秀才の集まる一高に行かず四高を選んだというので評判だった。年齢からいえば中野が二歳上で早生まれだったから、学年からいえば三つ上になる。
四高に合格し、その眼で確かめた実物の中野重治は、それまで聞いていたずば抜けた秀才のイメージを大きく覆すものだった。髪の毛は肩まで伸び、着ているものはボロボロ。まるで乞食のような出で立ちだ。しかも酒をあびるほど飲み、そんなことをやるのは不良少年だと思われていた文学なぞをやっていた。おまけに落第までしている。
ある日、友人が中野の下宿に行こうという。優等生崇拝の風潮に反抗する精神は尊敬していたが、中野の気位は高く、下らないと思ったら客がいても見向きもしないで本を読むという伝説があった。会うのは怖かった。恐る恐る行ってみると、にこやかで才気あふれる人だと実感してほっとした。このときから七九年八月二十一日の中野の臨終に立ち会うまで六十年に及ぶ友情が続くことになる。
和服を着て鳥打ち帽を被った石堂が東京大学に入学したのは一九二四年。前年に関東大震災があったから、本郷構内に渡辺銀行が出資してバラック寮を作っていた。五月ごろ寮にいる友人に誘われて何となく新人会に入ったが、このとき「君の名前は北山幸夫にしておくよ」と言われた。それから二六年四月に合宿所を借りる契約に本名が必要となるまで、大学では「北山」という名前で通した。
研究会で『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を読んだのがマルクスの著作を読む最初となった。フランス革命を現場にいて確認したかのような生き生きした表現に接し、これがマルクス主義なのだと興奮した。
入学した年の春。大学の前を歩いていると、カラカラと下駄の音がして肩越しに「新芽が出たね」と言いながら早足で追い抜いて行く男がいた。中野重治だった。落第が続き、入学は石堂と同じ年になったのだ。中野が新人会に入るのは翌年のことになる。
二五年は四月に治安維持法が公布され、十二月には社会科学連合会に属する京大、同志社大生など三十三人が治安維持法適用第一号として検挙された。学生運動を社会主義運動とどう結び付けるかが議論される時代だった。
石堂が共産党に入ったのは二七年十二月。コミンテルン日本支部として共産党が生まれて五年目のことだ。学生時代には、党とは学生運動や労働運動をどこかで指導している「神」のような存在に思っていた。ロシア革命がマルクス主義の正しさの直接の証明だと信じていたから、党の存在は絶対だった。
二七年に大学を卒業すると関東電気労働組合で働きはじめたが、その年の十月に新橋の烏森にある無産者新聞に行って働くようにいわれた。十一月のある日、市電の運転手をしていた秋和松五郎という男が無産者新聞にやってきて、「ちょっと話があるからきてくれ」
と、石堂を外に誘い出した。
東京中にチェーン店があった「三好野」という喫茶店へ行き、大福餅を頬張り、お茶を飲みながらこんな会話を交わした。
「君は労働運動をやっていくうえで、レフト(赤色労働組合の日本支部)より高級なものが必要と思うかどうか」
「そりゃー必要でしょう。誘われれば参加したいものです」
石堂はこれが共産党への入党勧誘だと思い心中興奮した。だがそれきりで党からの接触は何もない。後日、無産者新聞編集局の中心メンバーである是枝恭二(一九〇四年生まれ、三四年没)が、
「君に細胞組織の命令がありましたか」
と聞くので「ありません」と答えると、「確認されているんですよ」という。その途端、体が自然に震えだした。共産党の存在が、知識人にとって知的にも道徳的にも重い存在だった時代のことだ。
二八年三月十五日、のちに「三・一五事件」と呼ばれる共産党弾圧事件が起こり、細胞会議に二回しか出ていなかった石堂も逮捕された。が、三日で釈放。逮捕されなかった是枝が「共産党を守れ」という社説を書き、石堂たちが編集し、新聞を発行した。これが党の目的遂行の罪に問われ、一ヵ月後に再逮捕。山形為三警部補から竹刀や鉄の棒で殴られるなどの拷問を受けた。
市ヶ谷で一年、豊多摩で一年の刑務所生活を送り、三年目にまた市ヶ谷に戻ってきた。獄にいても、自分なりに歴史の必然を信じていたし、当時の治安維持法の最高刑は十年だったので、三五、六歳で出られるからまたやればいいと思ったので、そう煩悶はなかった。
組織関係の陳述に応じないので調書は埋まらない。運動をやめると一言書いたら不起訴にしてすぐ釈放すると判事が言いだした。ちょうど医者をしていた姉の夫が三三歳で亡くなり、姉が幼い一人娘を養わなければならないことを知らされた。父も母も他界していたので、弟や妹のことも気に掛かった。そんな思いが強まったときだったので、運動をやめて英文学で身を立てたいと上申書を書いた。
だが一晩中眠れなく、明け方にうとうととしていると父親が夢に出てきた。井戸の底にいかにも寂しそうな顔が映っている。目覚めると親に恥ずかしいという思いが強くわきおこり、看守に言って上申書を取り返し、破り捨ててしまった。
ある日、看守が佐野学の予審調書を持ってきた。佐野は共産党の最高指導者だ。調書には知らない党の歴史が書いてあるので面白かったが、石堂をふくめ無産者新聞のメンバーを「党員であったかも知れません」などと喋っていた。これが指導者なのかと失望した。
最終論述では「マルクスの理論は正しいと思っているが、私には弱点があるから共産党に復帰する自信がない」と語った。保釈になったのは一九三〇年十二月三十一日。布団包みを持って市ヶ谷刑務所を夜中に出た。外に出て監視のための望楼を振り返ったとき、はじめて恐怖感に襲われてゾクッとした。「またここに来ることになるのか」という弱気の感覚は、八八歳になる今でも忘れられない。
懲役二年六月、執行猶予三年の刑が確定したのは三三年。翌年、日本評論社に入社。長谷部文雄訳の『資本論』第一巻を出し、ヨーロッパの反ファシズム運動を紹介しようとしたが、その動静は社員の誰かによって警視庁に逐一報告されていた。
そんなとき、満鉄調査部の仕事をしないかという話が友人からきた。「東京で捕まるよりは……」という思いで中国へ渡ったが満鉄事件で四三年に検挙された。四四年五月、新京の方院で判決があり、執行猶予付きで釈放。二等兵としてハルビンにいるとき敗戦を迎えた。
大連の引揚収容所から日本に帰ってきたのは四九年十月のことだ。興安丸で舞鶴に着き、「活動分子」だからと一週間ほど米軍の尋問を受け、汽車で品川駅に着いたとき、出迎えの人でごったがえすなかに五味川純平の姿があった。石堂清倫、三五歳の秋であった。
石堂は八七年のある日、急に歩行が困難になり、口中から嫌なにおいがしてきた。水で口をゆすぐとしょっぱい味がする。やがて食事もあまりとれなくなり、だんだん痩せてきた。
死を意識した石堂は、一万三千冊ほどあった蔵書を、死んでからでは妻・文子(二千年没)が整理するのも大変だと思い、その際いっさい処分することにした。
お金がなかったので、本を買うには上製ではなく並製を、古本屋に出ているものは古本で買うようにしてきた。ルカーチの『歴史と階級意識』などは古本屋で五十ページぐらいずつバラバラになったものを、自分で古本の山のなかから見つけ出して、それぞれ三十円で買い求めた。家に帰って綴じ直すのだ。あるいはマルクスが使っていた『独英辞典』の同じ版を見つけて買ってきたこともある。
そんな石堂の人生そのものを色濃く染み込ませた貴重な蔵書をすべて手放してしまったのである。思い出の本は、トラック三台が一杯になるほどだった。
それから数年、ソ連や東欧の社会主義国が崩壊した時代の流れに迎合して、まるで取り外し自由な道具のように、ついこの間まで「信じていた」思想を、痛みを伴う自己省察もなしに軽々と脱ぎ捨てる人たちがいる。
だが石堂清倫の戦前の生き方から身に着いた思想は血肉化しているから、時代が激震しようとも重心は位置を変えることなくバランスを保つ。教条としてでなく方法として理論を学んできた強みで、好奇心はいっそう膨らんでも、立場は揺らがない。
だが、いまの石堂は、いままで自分で書いてきた論文は、先進国革命を考えるうえでは古くなったので、すべて捨てなければならないと思っている。そこでまず、現在を後期資本主義と時代区分するところから社会主義の問題を考えはじめているのだ。
石堂はマルクス主義の個々の命題は古く歴史的になっても、たとえば「各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」といった社会主義の命題はいまなお生命力があると考える。
だから「社会主義は実現しますか」と問われれば、「えぇ、来ます」と爽やかに答える。規範や状態としての社会主義は崩壊したが、運動としての社会主義は今日なお有効で、人間生活の向上を図ることが軽蔑されなければ社会主義は生き延びると確信しているからだ。
日本での『マルクス・エンゲルス全集』『レーニン全集』の総発行部数は約三百万冊。文庫本を加えれば、優に百万を超す人たちが本気でこの思想に触れたはずだ。いまこの人たちは時代の課題にどう向き合っているのだろうか……。「異端に生きる」石堂清倫の人生は、この時代を正面から受けとめる精神のしなやかさを教えてくれている。
(『サンデー毎日』92年6月7日号)
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