敗戦記

 テレビカメラや記者たちを前にして最初の会見をはじめたのは、開票がはじまった午後八時だった。東京・平河町にある都市センターホテル。田中康夫代表が語っているとき、眼の前に置かれたテレビではNHKが早くも予測議席数を報じていた。新党日本は「0〜1議席」だという。私は内心で驚いていた。午後四時を過ぎたところで報道各社が行っている出口調査の情報が入っていた。都市部で勢いがあり、国民新党、社民党を抜いているという。関係者からは「日付が変わるまでに一議席、深夜二時までに二議席めが決まるでしょう」と聞かされていたからだ。しかしその一議席さえなかなか決まらないままに日付が変わってしまった。会見場にも弛緩した空気が漂っていた。別室でテレビを見ていた私も「ダメかな」という気持ちが時間とともに濃厚になっていった。深夜になり田中代表の当選が決まったが、そのころすでに私は敗北を覚悟していた。深夜三時半。長男が缶ビールを差し入れてくれたが、その半分も飲む気になれなかった。しかしなぜか落胆はなかった。はじめての選挙で経験した数々の出来事の高揚感が続いていたからだろう。

 最後の五日間は「いけるかな」という思いが高まっていた。九州でも東京でも「期日前投票で入れましたから」とわざわざ声をかけてくれる方々が多かったからだ。投票日が近づくにつれてビラの配布数も増えていき、鹿児島ではとうとう個人ビラがなくなるほどのうれしい誤算もあった。三十年の自民党支持者から「こんどだけは有田さんに入れますから」とも言われた。北海道から沖縄まで、路上での「辻説法」と一期一会の直接対話は続いた。自民党支持者の安倍政権への批判も毎日のように聞かされていた。テレビに出演した安倍首相が、まるで官僚答弁のように細かい数字を語るたびに、待機していた側近たちが「よし」「いいぞ」などと絶賛していたと目撃者から聞いた。ところが画面のこちらで見ている視聴者の多くは、「これが総理の言う内容か。もっと大局を語るべき」と呆れていた。「これは何かが動くぞ」そう予感していた。自民党から離れる人たちは多いだろう。しかしどう動くのかはまったくわからなかった。

 参議院選挙は民主党の大勝に終った。自民党支持者の二五パーセントが民主党に投票したという出口調査もあった。基本的には安倍政権の敵失で民主党が勝ったということだろう。しかし私は新党日本に投票してくれた約一七七万人の思いに新しい政治の兆しを見る。政治部記者たちのなかにはこんどの参議院選挙で新党日本は七〇万票ぐらいしか取れないのではないかと見る者もいた。公示日の前日に、現職国会議員二人が記者会見を開いて実質的に離党を表明するという事態が生じ、それが内部のゴタゴタとして各紙で報じられていた。新党日本は外から見れば組織政党の一つと見えただろうが、内実は組織なき組織だった。その私たちが得票率で三・一パーセントを獲得できた。東京では共産党に続く得票だ。党員四〇万人、機関紙一六四万部の組織政党が獲得した全国での得票四四〇万票に比べて、組織なき私たちはその四割を得ることができた。その理由は政党のなかで「年金通帳の導入」をいちばん最初に提案したことや「長野革命」と呼ばれた田中康夫代表の政治的実行力、そして有田・田中がタッグを組んだことに政治家の新しい方向を期待してくれたからだろう。

 私たちに組織などなかった。二五万枚の個人ビラには一枚一枚証紙を貼らなければならない。それはすべてボランティアの努力に助けられた。配布できるのは候補者と運動員だけ。全国を回るのは私と運転手、そして運動員二人が基本。送られてくるビラの用意が心細くなったときは昼飯に入ったファミリーレストランで折っていた。都はるみさんやファンサークルのみなさんが大阪、東京の三日間を私といっしょにビラの配布してくれたのも、このような組織なき選挙戦を見るに見かねてのことであった。

 選挙の結果が出てしばらくしたある夜のこと、国会議員たちと酒を飲む機会があった。そのとき私の敗因に関連してこう言われた。「まず立候補表明が遅すぎた。それにしては十六万に近い個人得票は評価できる」。自民党も民主党も、比例候補となれば著名人であっても、企業、宗教団体、組合など、何らかの組織が割り当てられるというのだ。

 選挙に出ると記者会見したのが六月四日。それから全国を回ったが、どこでも「テレビに出ていますよね」と声を掛けられる。そして「誰の応援に来たのですか」と言われることがしばしばあった。私が立候補していることが知られていないのだ。それからは「私が選挙に出ているんです」 と念を押すことにした。コメンテーターとして一二年間出演した日本テレビ系「ザ・ワイド」は、開票結果が出た七月三〇日に私への密着ドキュメンタリーを放送してくれた。それからだ。「選挙に出ていたんですね」と見知らぬ人からいまでも声をかけられる。テレビ局には「映らないでください」とまで言われたことがあった。「公平性」の原則から候補者は映らないようにしているというのだ。ところが「話題の選挙区」やタレント候補は何度も特集されるのだから、これほどの不公平はない。もうひとつ感じた問題は比例区の投票方法を正確に知っている有権者が少なかったことだ。

 組織のしばりがないだけゲリラ的な行動もできた。大阪の道頓堀で都はるみさんとビラを配っているときのことだ。路上に自民党の大きな宣伝カーがとまっていた。麻生外務大臣が遊説でやってくるという。私は都はるみさんたちにビラを配ってもらい、小さなハンドマイクで自民党の年金問題への対応を批判した。私たちの周りには大きな人だまりができていった。自民党の選対関係者が場所を空けるように求めてきたが、まだ演説が行われる時間ではない。そのまましばらく演説を続け、ほどよいところで場所を移動した。相手が選挙のプロであろうと「おかしいことはおかしいと言う」。それが私たちの選挙戦だった。

 私が選挙に出る決意を固めたのは、「無実の罪」で「BC級戦犯」に問われ「日本国民の遠い責任を引き受ける」という言葉を残して二八歳で処刑された木村久夫さんの取材がかかわっている。何人もの関係者からお話をうかがった。「戦争が終ったとき、こんな日本になるとは思ってもいませんでした」。こう言われることが多かった。木村さんは存命なら八九歳。彼もきっとそう思ったことだろう。木村久夫を追うなかで私は政治の世界に入ろうと思うようになった。日本は変わらなくてはならない。瞬間の「政治バブル」はいつまでも続かないだろう。私にとって敗北とは終わりではなくはじまりにすぎない。

  (「共同通信」全国配信の元原稿。掲載時には微調整を行った)
 
All copyright 2007 Yoshifu Arita. All Rights Reserved. E-mail: arita@gol.com