敗戦記
       小沢一郎流「どぶいた選挙」を闘って  
                          有田芳生                                                 
             (1)
 夏の総選挙で東京11区(板橋区)から立候補して敗北した。
 投票日の午後にはマスコミの出口調査の結果が情報として入ってきた。いずれも私が自民党の現職候補よりも10ポイントほどリードしているというも のだった。朝日新聞では13ポイントのリード。NHK関係者によれば、「8時すぐの当確は出せませんが、8時台には大丈夫でしょう」とも言われた。
 それで楽観したわけでもない。結局開票後も選管発表は同数で推移、テレビ朝日などは一時「当確」を出したものの、日付が変わったところで相手候補 が3000票あまり多い得票で当選を果した。私は11万3998票をいただいたが、97・04パーセントという「全国最高の惜敗率での落選者」となった。
「この出口調査も問題なんです」とはあるマスコミ関係者だ。本来なら出口調査の結果は外に出してはいけないもの。しかし選挙関係者と記者の個人的関 係から情報は必ず漏れる。そこで組織政党は後援会名簿などを駆使して電話作戦を必死で行う。そこで出口調査とは異なる結果が生じることも起きる。
 私の選挙区の場合は原因不明だ。午後6時ぐらいから激しい雨が降り出したことで、投票の足がとまったこともあるだろう。出口調査の結果には反映されない期日前投票の影響も大きいだろう。相手陣営の幹部に疑問を問うたところ、意外な返答があった。
「夜10時ごろには候補者も負けたと思っていましたから、奇跡的としかいいようがありません」
 期日前投票に大々的に動員したのでもないという。ここでも朝日新聞の期日前投票の調査では10ポイントリードという数字をのちに知った。ならば組 織力の差が出たということなのだろうか。敗北が決まったとき、私は開票を見守ってくれた支持者に「すべて候補者の責任です」と語った。比喩的にいえば「商 品」としての候補者である。
 企業が商品を販売するとき、自信を持って消費者に宣伝をする。候補者も同じような性格を持っている。だから「売れなかった」=当選しなかったときには、「商品」のどこかに問題があったのだ。当事者としてはそう理解するしかない。
「当選すれば支持者のおかげ、敗北すれば候補者の責任」とはよく言われることだ。しかし、それは半面の事実しか描いていない。ほとんど何も行動せず、人材不足ゆえに比例名簿に掲載された者が、組織の力で楽々と当選する現実があるからだ。
 「売り出してもいい商品(候補者)」が「売れる(当選する)」には、宣伝力、話題力、流通力など多岐にわたる要素が必要になる。私のいまの関心で いえば、「時代精神」とどこまで寄り添い、少しでも先んじていたかという「商品」の質も大きな問題である。何が足りなかったのか。いまでもあれこれと振り 返っているところだ。
 今度の選挙で追い風にある民主党から立候補していれば、必ず当選しただろうとの声は多い。民主党本部の選対関係者も「1万票以上は差が出て勝ったでしょう」とも語った。その選択をしなかったのは、あくまでも新党日本というミニ政党の存在意義を感じていたからである。
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 私は新党日本(田中康夫代表)公認、民主党推薦で選挙戦を闘った。板橋では社民党、東京生活者ネットの推薦もいただいた。「政権交代」ムードで、 民主党が圧勝するとの報道は、テレビ、新聞などでも横溢、言葉は悪いが「草木もなびく民主党」旋風が吹いていた。「自公」政権に呆れる国民世論の厳しい批 判は高まるばかり。「政権交代」への期待が広がるのは当然だった。
 そもそも私は東京9区(練馬区の一部)から立候補する予定だった。2007年の参議院選挙で敗北してからというもの、田中康夫代表を通じて民主党 幹部とも相談のうえ、30年間居住している練馬区で総選挙を闘う予定だったのだ。ある幹部からは「あなたは野党共闘の象徴として東京9区で闘うんだ」とも 伝えられていた。
 組織なき者の仕方なさ。新党日本の街宣車で、駅頭を中心に訴え、早朝宣伝も行ってきた。練馬駅の近くに事務所も構えた。ところが民主党が突然に独 自候補を出すことを知って驚いた。情報を知らせてくれたのは早朝の駅頭宣伝の場で会った公明党区議だ。私は田中康夫代表に頼み、民主党候補者の発表前に東 京9区で立候補することを明らかにしてもらった。
 私が地元から総選挙に出ることが報道されて数日後に民主党予定候補者が発表された。「心理戦」のような状況が続いたものの、あくまでも練馬で闘う 意思は変わらなかった。ところが民主党の小沢一郎代表(当時)から東京11区からの立候補を要請されることになる。民主党推薦候補だ。田中康夫代表から話 を聞いたとき、あくまでも固辞した。苦悶は続き、党を離れて無所属で立候補しようかとも思った。しかし野党の選挙協力を壊すわけにもいかない。新党日本で 対立が起きたと報じられるのも避けるべきと判断した。
 板橋に選挙区を移すことを決意するのに時間はかからなかった。民主党本部で小沢一郎代表とともに記者会見を行ったのは2008年9月16日。私は その足で練馬に移動し、いつもマイクを握っていた駅前で事情を訴え、さらに板橋区の大山駅前で道行く人たちに東京11区で立候補することを明らかにした。 それからの1年間はいま振り返っても長い日々であった。幾日も経たない時期に民主党区議団、都議へ挨拶にも伺った。
 しかし野党の選挙協力とはいえ「難しいな」という雰囲気を感じていた。地元の民主党からすれば当然のこと独自候補を擁立したかった。自ら手をあげ た都議もいれば、組織として都連に擁立を求めた都議もいたからだ。政治的違いというレベルだけではなく、人間関係も最初から構築しなければならなかった。
 しかも当時は朝日新聞が「総選挙は十月二十六日投票」などと一面トップ記事で報じてもいた。選挙までひと月しかない。とても新しい選挙区に入り込 む時間もなかった。精神的に乱調をきたしたこともあった。ところがご承知のように麻生太郎総理は選挙を延々と延ばしていく。そのおかげで選挙準備の時間は 充分に与えられた。
 とはいえ民主党で私の選挙を支援してくれたのは、残念なことに実質的には半分だった。「有田さんが民主党に入れば応援しますよ。そうすれば仲間で すから」と最初から最後まで公言する区議もいた。何度も熱心に会合に誘ってくれ、支援者に会わせてくれる区議もいた。こうしてさまざまな新しい出会いが深 まっていった。
 驚いたのは警視庁公安部の幹部から、ある特定人物について「注意した方がいいですよ」と忠告されたことだ。「事務所が盗聴されていないかも調べた 方がいい」とまで言われた。「いまから言うことは独り言ですから」とつぶやきつつ、驚くべき情報まで教えられた。多くの取材経験で何度も経験したことだ が、世間にはいろいろなタイプの人間がいる。「表と裏の顔」が異なる人物がここにもいたかと苦笑するしかなかった。
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 選挙区を東京11区に変えてしばらくしたころ、小沢一郎代表(当時)に呼び出され、アドバイスをいただいた。いまではよく知られていることだが、 1日に50回の「辻説法」を行えというのだ。「そこに人がいないようなところでも、3分から長くて5分話すこと。必ず誰かが聞いていますから。大衆のなか に入りなさい」と言われた。そのときハッとした。
 「大衆のなかへ」=「ヴ・ナロード」はホンモノの革命家が強調していたことである。共産党本部に勤めていても、「赤旗」の配達や集金をせず、住民 運動にもかかわろうとせず、やたら頭でっかちで観念先行の輩を数多く見てきたから、この基本的な政治理念を久しぶりに聞ことは、何とも新鮮であった。もち ろん民主党、公明党、共産党などの区議や一般党員が地道な日常活動を行っている姿は、板橋でもしばしばこの眼にしたことだ。
 ドブ板選挙は有権者ともっとも密に接触することのできる唯一の方法だろう。それがわかってはいても、実践するのはなまなかなことではない。やって みると大変かつ貴重な経験だった。板橋区の外れにある地域は、すぐ向こうが埼玉県だ。狭い路地で話をしていると家のなかから顔を見せる人がいる。わざわざ 出てきてくれる人もいる。「よくこんなところまで来てくれましたね」と声をかけられたこともあった。
 「誰も聞いていなかったな」とマイクのスイッチを切ったところで背後から拍手が起きたこともある。二階の窓で聞いてくれていたのだ。小沢流「ドブ 板」選挙は、まさに基本だと実感する日々が続いた。同行してくれたスタッフもまた充実感があるとしばしば語っていた。しかし1日に50回の演説は、それで も達成できるものではなかった。
 3分として50回なら150分。2時間半ではある。しかし場所を移動し、旗を立てるなどの簡単な準備をしてこなしていくにはなかなか大変なのだ。 「目標でいいですから」と小沢さんが言ったことは、まさにその通りである。「どうしても人の多いところで訴えたくなるものだが、いないようなところでやる ことが大切なんです」という言葉も印象的だった。事務所に貼った板橋全図には「辻説法」を行った場所に赤いピンを押していった。これで「空白区」が一目瞭 然でわかるのだ。
 年が明けて事務所で年賀状の返事を書いているときのこと。「やあやあ」と言って小沢さんが突然入ってきた。簡素な丸椅子に座って、眼の前に貼って あった板橋全図を見ながら「大山は懐しいなあ」とも語り、選挙運動の現状を聞いて、あわただしく次の目的地に向った。お茶を出す間もない「抜き打ち」であ る。現地視察もまた「大衆のなかへ」の理念に基づくものなのだろう。
 小沢さんからは事務所や携帯に何度も電話をいただいた。「新聞やテレビの世論調査より詳しい世論調査」(政治部記者)を根拠に、選挙運動の注意点 を伝えてくれるのだった。推薦が決まった直後には相手候補に「あと少し」という調査結果が出たので「いい数字が出てるよ」と教えられた。告示日前のある日 にも電話をいただいた。ところが調査結果のなかで「認知度」が弱いという。告示直前の総合評価から後退していた。
 テレビなどで顔は知られている。しかしそれが「有田芳生」であり、東京11区から総選挙に出るという情報として結びついていないのだ。現職候補者 の「認知度」が高いのは、13年間も板橋区の国会議員として知られていたからである。「ひと月あれば充分に挽回できますから。できるだけ人前に顔を出すよ うに」こう言われたが、残念ながら小沢さんの危惧は当たることになる。
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 ドブ板選挙が基本であることは年が明け活動スタイルを変えてからも充分に実感できた。あるときポスターを貼ってくれた居酒屋で酒を飲んだ。それか ら一週間ほどして5キロほど離れた喫茶店に入った。そこでマスターからこう言われた。「有田さん、この間○○に行ったでしょう」。世間は情報伝達が早いの だ。
 選挙結果について書き忘れたことがある。投票所に行った何人もの民主党支持者から区議に不満が寄せられた。掲示された立候補者の名簿を見ても「民 主」という言葉がなかったというのだ。私は新党日本の公認だから、名簿には「日本」と書かれている。とくに高齢者のなかには、投票所で戸惑う方たちがいた ようだ。その人たちが誰に入れたかは不明である。
 もうひとつは共産党の主張である。「自公政権をここでやめさせましょう」と言いながら、「東京11区には民主党の候補者がいません。だから共産党 に入れてください」といった趣旨の主張を候補者が地元紙などで繰り返していた。たしかに民主党の候補者はいなかった。でもなあと思った。こういう戦術を何 と評すればいいのだろうか。
 小沢流選挙戦術に従って「辻説法」を繰り返してきたが、さらに地元に入り込もうと2009年はじめから戸別訪問を活動の中心に据えることにした。 無差別に地域を決めて一件一軒ご挨拶に伺うことにしたのだ。なぜスタイルを変えたのか。それは2008年末に田中康夫代表と板橋を歩いたときの効果を実感 したからである。
 チャイムを鳴らす。「長野県知事をしていた田中康夫です」と言えば、なかには悪戯だろうと思って確かめにくるひともいた。そこにワイドショーでも 見たことのある私がいる。多くのみなさんがいささかならずびっくりしたことも印象的だった。まだ選挙まで時間がありそうだ。ならば後援会拡大を目的とした このスタイルでやってみようと判断した。「小沢スタイル」と「田中スタイル」の融合だ。
 組織のない予定候補者だったが、スタッフがポスターの掲示をお願いするよりも、本人が頼んだ方がずっと効率よく引き受けてくれる。組織政党なら ば、都議や区議あるいは支部にポスターを降ろして掲示を指示すればいい。いちばん驚いたのは公明党だった。練馬でのことだが、ある朝いっきょに新しいポス ターが貼り巡らされていた。
 戸別訪問を続けて数か月で問題が生じた。左膝が痛み出したのだ。整形外科に行くと「水が溜まっています」という。歩きすぎだった。注射器で抜いて もらった水量は10きない」ことになるのは、待合室でさまざまな方から声をかけられたからだ。左膝にサポーターをはめての行動は続いた。
 このサポーターの購入では行政の驚くべき対応を経験もした。居住している練馬区役所に病院でもらった書類を提出に行った。7000円ほど補助して くれるからだ。その場でもらえるものと思っていたが、そうではなかった。書類を審査して指定銀行に振り込まれるのは3か月ほどになるという。「何を審査す るのですか」と聞いたところ、「本当に必要かどうか」などという。年金も少ないお年よりなどには、補助金を受け取るまでに3か月とは長すぎる。効率的行政 はさまざまな分野で必要だ。
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 戸別訪問は意外な出会いも多かった。ある路地からさらに奥に入っていこうとしたときのこと。どちらの道を選ぶかも自由。任意に歩いてチャイムを押していく連続。ある家庭から赤ちゃんを抱いた若いお母さんが出てきた。
 私を見てあわてている。彼女は障害を持っていて語ることができなかった。筆談で伝えてくれた言葉を見て驚いた。八戸のペンションで会ったことが あったのだ。もう7年ほど前だっただろうか。私の一家は夏休みを利用して列車で北海道に行く計画を立てた。その一泊目がネットで探した八戸の宿だった。
 翌朝も食堂で食事をとった。宿泊客は私たちと聾唖者の家族だけ。そこにいた少女が結婚して板橋に暮らしていたのである。まさに意外な偶然。ある団 地では出版社時代の同僚の奥様の高校時代の同級生だと告げられたこともある。現実の面白さとはこんな経験がいくつも生まれるところにある。
 朝の駅頭での訴えもスタイルを変更した。それまでは私がマイクを持って短い話を繰り返し、スタッフが宣伝物を配布するという、どこの政党でもやっている方法を取っていた。しかし、「これは違うかな」と思うようになったのは、相手の立場に立って考えてみたときのこと。
 うるさいだろうーーそう判断したのは、私が会社員時代の通勤と違って、圧倒的にイヤホンをしている人たちが多いからだ。ラジオを聴いている人もいるが、多くは音楽だろう。しかも不景気な御時世にうつむき加減で駅に向う人も少なくはない。
 そこでマイクを持たず、私も宣伝物をひたすら配ることにした。そこで何と声をかければいいのか。最初は「新党日本の有田です」。しかし現実には悲しいことに「新党日本」の知名度は「田中康夫」や「有田芳生」よりもない。ならばどうするか。
 試行錯誤の結果「オウムと闘った有田です」に収斂された。朝の忙しい時間だ。それでもこのフレーズを聞いて、通り過ぎた人がわざわざ宣伝物を取り に来てくれることもしばしばだった。オウム事件は1995年。それから14年も経過しているにもかかわらず、私の世間に与えた印象は「オウム」なのだ。そ れは選挙が終わったいまも変わらない。
 こうして駅頭に立っているとさまざまな人間模様が見えていた。わざわざ握手を求めてくれる通勤客も多かったが、なかにはあからさまな対応を取る人 たちもいた。汚いものでも避けるようにわざと手で振り払いながら「シッシッ」と言う男性。「ジャマだ」とわざとぶつかってくる男性。耳をふさぎながらこれ みよがしに近寄ってくる女性。「三流ジャーナリスト!」と叫んで行く若い男性もいた。
 宣伝を終えたときだったので、このときばかりは後を追って「どういうこと」と聞いてみた。すると「テレビでつまらないコメントばかりして」という ので、具体的にはどんなことかと聞いてみたが、何も答えられない。「どうしてそんな捨てゼリフをいうの」とさらに問うたところ、32歳だという男の顔がぐ にゃりと歪み「Hさんが危ないじゃないか」と現職候補の名前を語った。
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 選挙の現場、とくに小選挙区では、濃厚な人間関係が渦巻いている。恩師・山口正之さんの言葉を借りれば、そこには「生活の香り」がある。2年前に 体験した特定地域を持たない参議院選挙(比例区)と比較した根本的違いである。組合や宗教組織などを支持基盤とする候補者なら「組織内候補」としての「し がらみ」も出てくるだろう。私は「しがらみ」がほとんどない「根無し草」の候補者を経験した。だから小選挙区での闘いは大変であり、面白くもあった。
 ある人脈をたどって自民党の「地域ボス」を訊ね歩いた。たいていは挨拶程度で終わったけれど、なかには貴重なアドバイスをくれる方もいた。1時間 の立ち話をした結果、カンパをくださった方もいた。そこでまた人間関係が広がっていく。「あなたにどうしても勝って欲しいんだよ」といいつつ、同時に現職 候補者にも足場を持っているケースもしばしばだった。人生とは「妥協の原則」を摸索することなのだ。「面倒な人間関係だな」と思うこともあったが、町会や 商店会などでは自民党組織の網の目はこうして形成されているんだという発見もあった。
 ある居酒屋がポスターを貼ってくれた。するとすぐに自民党元区議がやってきて「いつから有田の支持者になったんだ」と剥がしていったこともある。 それだけではない。数日後には「警察」を名乗る男が店に来て「有田はどれくらい飲みに来るのか」と聞いていった。まさか警察官がそんなことをするはずもな い。嫌がらせだったのだろう。ちなみにその店は民主党区議の後援会の方々と一度ご一緒しただけだ。
「申し訳ないけれどポスターを剥がした」と事務所に電話があった。やはり地域の自民党関係者が文句を言ってきたのだそうだ。大通りに面した場所だ。 そのメイン通りではあるときいっせいにポスターが消えていたこともある。民主党に出入りしている人物から選挙関係の仕事を頼まれたときのこと。予算がない ためにお断りした。その途端に「ポスターを剥がすようにと言われたので」と数人から電話がかかってきた。ごく小さな利益が選挙に駆り立てるのだろうか。
 創価学会でも「何か」が起きているようだった。ある日のこと、2人の女性が事務所のなかを見ていた。挨拶をすると「こんどは有田さんに入れますか ら」といいつつ創価学会員だと自己紹介した。ある祭り会場でも「学会員です、投票します」とわざわざ声をかけてきた男性がいた。「積極的自由の方針なんで す」と言われたが、意味が理解できなかった。
 ある職場では上司が従業員に「比例は公明党に入れてください。小選挙区は有田です」などと語っていた。そんな経験がいくつもあった。どうやら板橋 の創価学会は自主投票的な判断もなされていたらしい。実際に東京11区では5000票の白票が出ているが、そのほとんどが創価学会票のようだ。調べてみる と公示数日前に1700人の幹部信者を集めて「積極的自由」という指示が出されていた。
 民主党のごく一部では「比例区は民主党、小選挙区は○○」と自民党現職候補を応援する動きさえあった。それがどこまで実体を持ったものかは不明だ が、少なくとも自民党古参幹部はあちこちでそう語っていた。本当ならばまさに卑劣な恥ずべき敵対行為である。ある都議は私に電話をしてきて「後援会は支援 しないと決まりました」と言った。「上田耕一郎と親しかったのはけしからん」と幹部たちが言ったという。2月はじめのことだ。
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 選挙戦の真只中に困ったのは新聞各紙が大々的に参議院議員に繰り上げ当選するかのように報じたことだ。「共同通信」はこう報じた。「有田氏の出馬  取り下げも 日本、参院繰り上げで  新党日本の田中康夫代表は21日午前、田中氏の参院から衆院へのくら替え出馬に伴う有田芳生氏の繰り上げ当選につ いて、参院比例代表の選挙会が決定した後に辞退するか判断する考えを示した。都内で記者団に述べた」。 この報道には心底驚いた。冗談ではない。これでは 私が繰り上げ当選を受諾して、東京11区から選挙戦の最中に撤退するかもしれないということになるからだ。
 田中代表が兵庫8区から出ると参議院議員に繰り上げ対象になるのは私だった。ところがすでに東京11区で選挙戦を闘っている。もし繰り上げを引き 受けるなら、選挙戦の最中に候補者がいなくなる。日本の選挙史上はじめての事態であった。もちろん私は繰り上げ当選を選ぶつもりなど最初から無かった。
 そもそも繰り上げを決める中央選挙会は8月30日前後に開かれる予定だった。諾否は通知が届いてから5日以内に行う。読売新聞(8月18日付、夕 刊)はこう報じた。「総務省選挙部によると、有田氏が衆院選で当選した場合でも、衆参どちらの議員になるかは、有田氏が決められる。繰り上げ当選者を決め る中央選挙管理会の選挙会は、8月30日前後に開かれる見通し」。こうした報道を受けて選挙会は急きょ開催を早めたのだろう。
 ネットのYahoo!ニュースでは立候補辞退もあるかのような記事が半日もトップニュースで報じられた。ところが私に直接取材をして報じたメディ アはいっさいなかった。まさに「焼け石に水」。とくに大々的に報じた「スポーツニッポン」では永田町関係者なるものが「有田は繰り上げを選ぶはずだ」など とコメント、とくにネットを通じて広がっていった。板橋区でもそんな情報を流す勢力もあった。
 選挙区でも混乱が起き、批判や苦情、戸惑いが事務所や私にも多く寄せられた。まさに報道被害だといわざるをえなかった。高島平駅前の早朝宣伝のと きには、自民党の相手候補も「どうするんですか」と聞いてきた。もちろん「ここで闘います」とお答えした。この事態を打開するためには報道してもらわなけ ればならない。東武練馬SATY前の演説で繰り上げ当選するつもりなど最初からないことを語ったのを報じてくれたのは「スポーツ報知」だった。
 敗因をこの問題にあったとする声も多かった。私もそうかなと思わないでもなかった。しかし選挙後に知ったことだが、朝日新聞の調査では繰り上げ当 選を辞退してから、支持率は上がっていったという。「繰り上げ当選」の影響は皮肉にも選挙後も続いている。板橋だけでなく都内各所でも「おめでとうござい ます」などと言われる始末だ。当選を辞退するのではなく、受諾したと思い込んでいる人たちが案外に多いのだ。まさしく苦笑するしかない。「受けるべきだっ た」などといまでも新聞記者などに言われるが、「そのつもりはまったくなかった」と答えるしかない。
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 小選挙区での経験はとても貴重なものであった。「敗北を抱きしめて」次なる課題に向わなければならないと思うのは、大きな課題を発見したからであ る。視野に入っていなかったそのテーマは、私にとってはまさしく「発見」であった。これまでオウム、統一教会、カルト教団や北朝鮮による拉致問題などに取 り組み、それを国政での基本テーマにしようと考えてきた。テレビ業界、演劇、音楽、スポーツ分野からもいくつかの課題を相談されていた。それぞれに改善や 解決を必要とする大切なテーマだ。
 ところが練馬、板橋での2年間の政治活動を続けるなかで、日本全体の今後にかかわる大問題を発見した。これは私個人が選挙で敗北しようと厳然たる 「時代の課題」として残されたままだ。ありていにいえば、どの政党も政治家もほとんど主張しないからこそ、問題なのだ。いま大きく報じられている予算のム ダを省く作業は日本政治にとって必須の仕事。しかし税収が落ちているいま、日本に求められるのは「富の配分」から「富の創造」への転換なのだ。
 選挙時のチラシでも書いたが、「成熟社会」における居住モデルを創ることである。これは医療・福祉・介護・環境を中心とした産業構造に転換してい く課題と結びついている。少子・高齢時代が進行しているにもかかわらず、新しい時代を先取りした政策提示と実行はあまりにも遅れているのだ。介護の仕事が 増えたところで日本経済全体にはあまり影響を及ぼさないという意見がある。これは「木を見て森を見ない」たぐいの議論であり、内田樹さんの指摘によれば、 「この問題に触れていない」といった狭い学界的な発想にすぎない。
 たとえば板橋区の高島平団地を見てみよう。日本全体の高齢化率(人口に占める65歳以上の比率)は23パーセント。ところが高島平団地では36 パーセント(「高島平新聞」独自の調査)で、数年後には「団塊世代」の退職によって50パーセントを超える。独居も増えており、何よりも足腰の弱る世代に とってエレベーターのない団地(すべての居住棟ではない)は苦痛だ。1972年に完成した「東洋一の団地」も、いまや47年の時間が経過、居住者も高齢化 したが、建物そのものもいずれは立て替えなければならない。ここにポイントがある。
 関東大震災が起きたとき、あるいは終戦後に再建された都市はいわば「バラック復興」であり、充分に計画されていたわけではなかった。未来を見据え た都市計画なき日本。それはいまの東京を見れば誰にでもわかることだ。作家の須賀敦子さんが亡くなる前、入院している病院屋上から東京を見渡して「いつか らこんな都市になったのか」と嘆いたとおりの現実がある。そこにメスを入れ、新しい日本社会を創っていかなくてはならない。
 東京や横浜に同潤会アパートが出来たのは、関東大震災後のこと。近代日本ではじめてコンクリート造りのアパートメントが建設された。茗荷谷に建築 された大塚女子アパートに、共同浴場、エレベーター、売店、音楽室などが設置されたことは画期的であった。しかし総合的な都市計画のなかったことが、日本 全国にいびつな街を作り上げたのである。この国は関東大震災、敗戦という都市整備のための2回のチャンスを逃したまま、いまに至っている。これからでも 「人間の顔をした都市計画」を実現することは可能なのだ。
 いまの日本には「成熟社会」に対応したモデル住宅が求められている。増加する高齢者への負担があまりにも大きいからだ。デイサービスに向うお年寄 りたちは、時間をかけて施設で時間を過ごす。足腰が弱っている人にとっては、迎えの車に乗せられて移動するのは肉体的、精神的に大変なことだ。たとえば居 住地(の近く)に24時間対応の浴場施設があればどうだろう。そこにはクリニックや文化施設もあり、大学の公開講座や退職者による各種催しや講座もある。 高齢者だけでなく、若い人たち、あるいは現役世代も楽しめるような文化会館も併設される。「成熟社会」に対応した居住モデルとは、何も高齢者のためにだけ つくられるのではない。
 それを実現するには時代観の大転換が必要だろう。もはや「右肩上がり」の経済成長を求めるのではなく、生活の質を充実させる「成熟社会」の実現こ そ目指さなければならない。そのための居住モデルである。阪神・淡路大震災規模の地震や風速80メートルにも耐えうる共同住宅を作るには、まず建築基準法 を改正しなければならない。容積率と耐震強度は関係がない。特定地域の容積率を緩和し、緑地を増やして高層住宅を整備する。これは日本国内向けの課題に終 わらない。(詳しいことは省略。いずれまとまった形で報告する予定でいる)
 専門家によれば、日本の建築は、規格が単一でないために、一棟づつのオーダメイドであり、いわば英国屋でスーツを作っているようなものだという。 部品を標準化し、工場生産を取り入れることによって建築費を3分の1にできるという試算もあるという。もちろん建物の色やデザインなどは住民の総意で決め ていく。湾岸地域を職住接近の街に開発することで郊外を自然豊かな街に育てていくことも可能だという専門家もいる。 
 2050年には世界人口は100億人を超える。中国、インド、中東をはじめとして世界中で建築需要がある。日本の技術を総動員して新産業を創設す るのだ。マグニチュード8の震災にも耐えるシステムを世界に輸出する。ある専門家は「日本のアポロ計画」だと表現した。中央防災会議が検討した首都直下地 震についてのシュミレーションでは、被害総額が約112兆円だとされている。起きてからの被害を想定するのではなく、地震が来ても被害を最小限に抑える施 策がいまから求められている。
 政権交代したとはいえ、いまの日本に欠けているのは国家目標である。明治維新以来の日本を振り返れば、国家目標のあるときにこそ社会は活性化し た。言葉を代えて言うならば、国家目標なき社会は衰退していくのみだ。産業構造を時代に合ったものに作り替えていき、そこに人間らしい街造りを組み込んで いく。「成熟社会」とは「衰退社会」ではないのだ。
 板橋での政治活動の1年は、わたしに大きな課題を与えてくれた。過ぎ去った時間をもはやあれこれと振り返ることはしない。2009年夏の選挙で敗 北したとはいえ、成熟社会の居住モデルを創造する仕事は、日本から世界へと広がっていく壮大なテーマである。その実現のための新しい挑戦をしなければなら ない。選挙を終えてそんな思いを抱えながらも眼の前には重い扉がそびえていた。新党日本副代表としての立場に逡巡が芽生えたからである。
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 大山の事務所の横にある建物の一室で開票を見守った。最初は事務所の3階にいたのだが、そこにはテレビがない。開票速報を見ている支持者の歓声だ けが聞こえていた。しばらくしてみんなのところに来るように言われていちばん前に座る。テレビを見ていても東京11区の開票状況は報じられない。午後9時 を過ぎてから票数が出るのだが、いずれも相手候補と同数。しかし不思議なことに「静謐」という言葉通りの心境で、まったくあせりも不安もなかった。
 わざわざ立ち合ってくださった草野仁さん、そして選挙を共に闘った方々の顔がすぐそばにある。だんだんと会場の空気が緊張していった。やがて田中 康夫代表の当確が報じられて、会場はわいた。それでも私の「心の湖面」はなぜか静かなままだった。テレビの開票速報が別世界のようにも感じていた。やがて 選対の中心を担ってくれた尾名高勝区議の携帯電話に連絡があった。開票所にいる知人からだった。そっとささやかれた。「ダメみたいです」。そう聞いてもな ぜか動揺はなかった。
 もう深夜零時を過ぎている。テレビで相手候補の当確が報じられた。みなさんには明日もある。早く挨拶を済ませた方がいい。多くのみなさんの御支援 に感謝しつつ、敗北はすべて候補者の責任だと敗戦の弁を語った。熊木美奈子都議に続き、草野さんも「10万人を超える有権者が支持してくれたことはさらに 闘えということだ」と励ましてくれた。雨のなかを解散の時間になった。ボランティアでずっと奮闘してくれていたO君が嗚咽をもらした。その姿を見るのがつ らかった。口には出さずとも民主党区議など何人かの目頭が潤んでいた。
 みなさんそれぞれに握手と御挨拶をして、家人、次女と事務所の近くにある沖縄料理店に入った。夕食を取っていなかったからだ。「これが現実なの だ」と受け入れるしかなかった。納得ではない。しかし精神の落ち込みはこのときでもなぜかなかった。ところが翌日になって疲れがいっきょに出てきた。ブロ グに定期的更新ができるか分からないと書いたのは、とても記録を書いている心境ではなくなったからだ。ところがである。これまた不思議なことに翌日からは 気力があふれてきた。
 2007年の参議院選挙で敗北したときとはまったく異なることに自分でも驚いた。あのときは精神に深い傷を負ったのだろう。とくに慰労のために家 族と温泉に行ったとき、必要があって田中康夫代表に電話をした。国会出席の準備をする田中さんと自分の立場を比べて落ち込んだことは、持参した単行本(藤 原新也さんの著作など)を読めなかった記憶として残っている。中村天風さんの『真理のひびき』(講談社)を読もうとしたのも、精神建て直しが必要だったか らだ。ところがこの本もあまりなじめず、いつしか途中で読まずに終わった。
 その2年前と比較すると精神的打撃のまったくないことに自分でも驚いた。「落ち癖」がつくほど選挙をやったわけでもない。図太くなったのかといえ ば、そんなものでもなさそうだ。おそらくは自らの置かれた環境を前向きに引き受けることができるようになったのだろう。30歳代で自分の描いていた人生行 路を断たれたときの断念に比べれば何ということはない。しかしそうはいっても「これからのこと」を考えなければならない。本を読みながらも、映画を見なが らも、どこにいても、いつしか来年の参議院選挙のことを考えるようになっていた。
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 出発点は09年衆議院選挙での比例区での得票だった。新党日本が結成された2005年の総選挙の比例区では、全国5ブロックから立候補、得票は約 164万票。私が立候補した07年参議院選挙では177万707票をいただいた。ところが09年衆議院選挙の比例区では、全国6ブロックで立候補、次のよ うな得票を得た。東京選挙区10万381票、北関東選挙区6万8191票、南関東選挙区7万9792票、北陸信越選挙区7万3614票、東海選挙区7万 2485票、近畿選挙区13万3708票。合計は52万8171票。
 明確な得票目標があったわけではない。しかし予想外の苦戦は、惨敗と言われても仕方ないほどの結果である。どの政党よりも先駆的な政策ーたとえば ベーシックインカム(最低生存保障)の導入ーなどに期待を寄せてくださる有権者が約52万人いたことはありがたいことだ。とはいえ来夏までの10か月で再 生できるかどうか。私の責任は新党日本が田中康夫代表ひとりの国会議席から政治勢力になることであった。少なくとも板橋で議席を獲得しなければならなかっ た。新党日本を「第三勢力」に育てる課題を果たせなかった自責の念は強い。
 どうするべきか。ノーベル物理学賞の益川敏英さんの『のりしろ思考』(扶桑社)を読んでいると、こんなことが書いてあった。「目標は、苦しくても けっして下ろしてはいけない」。そうだと思った。シュテファン・ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』(みすず書房)の「一生の経歴にとって、一時的空白が 生じることほど、幸運なことはありえないのだ」というフレーズにも考えさせられた。「失敗してはじめて、芸術家は自己と作品との真の関係を学び、敗北して はじめて、将軍は自分の誤りを知り、失脚してはじめて、政治家は真の政治的展望を授かるのだ」ともツヴァイクは書いている。
 信頼できる知人たちにも相談を続けた。民主党幹部からも電話をいただいていた。まずは「土俵」に登らなければテーマを有効に実行できないこともわ かっていた。思いは固まっていった。ならばどこに所属するのか。ほかのミニ政党でも、テレビなどで同席し、じかに見てきた自意識過剰な政治家などといっ しょに行動するつもりはなかった。田中康夫代表から民主党の石井一参議院議員に相談するように言われた。石井さんは総選挙のとき何度も電話をくれて、気を 配ってくださっていた。話し合った結果は新党日本からの離脱であった。
 11月18日、国会内の民主党幹事長室で、小沢一郎幹事長、石井一選対委員長、田中康夫代表とともに会談、来夏の参議院選挙で民主党の比例代表候 補として立候補することが内定した。翌19日には新党日本の副代表を辞任、離党をすることが役員会で了承された。「それがいちばんいい」と田中康夫さんか らも言われ、握手をして2年5か月ほどお世話になった平河町のヘッドオフィスをあとにした。
 2007年の参議院選挙では15万9814人から「有田」と書いていただいた。それを気持ちの上ではリセットした。「1からの出発」だ。来夏も 16万の有権者に「有田」と書いていただける保証は何もない。労組や宗教団体の支援(信仰などなくとも票のために「信仰」する場合が多い)を受ける候補者 は、組織内を挨拶して歩き、そこを固めていけばいい。しかし私には何の組織もない。田中康夫さんと共通の思いは、組織に属してはいても「無所属の時 間」(城山三郎)に自己判断をすることのできる方々に訴え、支持していただくことだ。
 そんな支援者のなかから、北海道でも大阪でも応援体制を取っていいという声が寄せられていることはありがたい。総選挙で現場に立ってくれた湯川れ い子さんや市川森一さんなどからも「まだまだやるよ」と電話をいただいている。「時代の課題」にいかに接近していくのか。2年前に自分の判断で新党日本の 理念を選択し、ここまで歩いてきた。現場で獲得した視野はさらに広がり、手触りもはっきりしている。これからの日本と「日本の未来である子どもたち」のた めの「最後の闘い」はすでにはじまっている。この国への思いを持続しながらさらに進む。

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