97(平成9)年3月16日の昼前。当時14歳の少年Aは、くり小刀と金づちを持って自転車で家を出た。1時間ほどの間に2人の少女を襲った彼は、夕方になって自宅に戻ると、そのまま深夜まで眠り込んでしまった。
夜中に目を覚ました少年は、机の引き出しからB5版のノートを取りだし、その日の体験を記録した。
「愛する『バモイドオキ神』様へ/今日人間の壊れやすさを確かめるための『聖なる実験』をしました」
冒頭の文章だ。5月8日付けでは、さらにこう書いている。
「愛する『バモイドオキ神』様へ/ぼくはいま14歳です。そろそろ聖名をいただくための聖なる儀式『アングリ』を行う決意をしなくてはなりません」
このノートの表紙裏には仏像の顔をした「バモイドオキ神」の絵が書いてあった。
「聖なる儀式『アングリ』」を決意した日から16日後。少年は、知人の男子小学生を殺害し、約2日後に自分が通っている中学校正門前に遺体の頭部を置いた。いわゆる神戸事件である。
洪水のようにあふれた情報。約1か月後に少年逮捕。家庭裁判所の判断は、医療少年院相当。2人の子どもが殺害された異様な事件も、いまでは多くの人たちの記憶に沈殿しているだけだ。
異常な事件としての「納得」。ところが事件の深層はいまだ明らかになっていない。たとえば少年にとって「バモイドオキ神」「聖なる儀式」「聖名」とは何だったのか。
少年の精神鑑定を担当した医師はこう説明する。
「バモイドオキ神は、自分から良心を引いたもの。しかも自分とは別人格の神様。すべてオリジナルだと胸を張っていました」
地下鉄サリン事件は少年が12歳のときに発生している。朝から夜中まで、報道はオウム一色。巷では大人も子どももオウム用語を話題にした。教団名を現わす「ホーリーネーム」もそのひとつ。どれほどの人が気づいているだろうか。この単語を日本語にすれば「聖名」なのだ。さらに「神」と「儀式」。洪水のようなオウム報道は少年たちのこころにそれぞれの「風景」を刻印したはずだ。
「心的外傷」や「解離」の権威である中井久夫・甲南大学教授も、オウム事件の子どもたちへの影響を心配してこう指摘する。
「子どもたちは何事だろうかと思ってあの事件を見つめていたはずです。しかも犯人集団だろうと思われていた人物がテレビに出ているのを見ると、まるでヒーローのように映ったかもしれない。テレビに出ているというだけで子どもにとってはヒーローになりうるからです。何よりも怖いのは、暴力性よりも、ひよっとしたらも犯罪でも許されるかも知れないという思いです」
99年から2000年にかけて問題となった「17歳の犯罪」の数々。神戸の少年Aと同世代だ。警察白書が強調する少年非行の「第4の多発期」。それは96(平成8)年ぐらいからだという。「オウム事件が日本の犯罪の質を変えた」(警察庁幹部)ことは間違いない。
犯罪は究極だろう。だが子どもたちの内面に「破壊願望」が浸透している兆候がある。
昨年6月、ある私立校でアンケートを取った社会科教師がいる。中学3年生、高校2、3年生の回答(314人。すべて男子)は、「身近な人に激しい憎悪、嫌悪感を持つ」が7割、「すべての破壊を願った」が4割。もちろんこうした結論を示す内面の理由は単純ではない。「これだ」と特定できる理由もあるまい。
だが、中井さんはこんな警告も語った。
「生活の最初からテレビやビデオがあったらどうか。精神科医のあいだでは70(昭和45)年ごろから議論がありました。いつ影響が出てくるだろうか、と。私の考えでは、テレビは何人かでいっしょに見れば批評もできます。生身の人間が情報を送り、子どもの受け取り方を援助できるからです。だがゲームは非常に孤独で、ある種の犯罪への動機付けにもなっていくように思います」
少年Aがノートに描いた「バモイドオキ神」。彼は自分だけの「神」に犯行を語り、計画し、実行に移した。「ひとりオウム」とでも言えるだろう。「架空」の「神」が指示を出し、生身の人間を動かすことがあることを示したのも神戸事件の一側面だ。
いまや小学生からパソコンを手にする時代。テレビと同じく精神への浸透はストレートだ。かりに、ゲーム感覚であってもそこで詳細な会話が成り立てば、ディスプレイに組み込んだ画像が、少年Aにとってのバモイドオキ神のような「架空」の「神」となることは十分ありうることかもしれない。テレビやビデオの孤独な鑑賞、さらにはゲームの影響。子どもたちの生活環境は大きく変貌を遂げている。
前号でも明らかにしたように、生まれてから「空気」のようにテレビがあり、さらにはビデオやテレビゲーム、パソコンが当り前となった世代の「内面」には確実な変化が見られる。
テレビの影響は「情報」内容だけではない。「刺激」という側面も重要だ。
ここ数年のこと。子守歌を聴くと泣きだす赤ちゃんが目立ってきたという。若い母親が子守歌を歌うことも少なくなったとはいえ、むずがる赤ちゃんを子守歌であやすという伝統的風景。それさえ崩れつつある。
なぜか。いまや胎児のときから耳に聞える音といえば、テレビのCMに代表されるテンポよい華やかな音楽が主流だ。ところが子守歌の音域は低く、明るくはない。その違和感に反応して泣きだすというのだ。
「子どもの社会力」が必要だと主張する門脇厚司・筑波大教授は、この問題に関連してこう語る。
「人嫌いが進んでいるのかも知れませんね。他者喪失です。子どもの双方向への刺激が減ってしまった。その背景にテレビやゲームの普及があるのではないか。生身の人間と付き合う時間が減り、物とつながりながら、一人で過ごすようになる。ひとりでいることが退屈なことではなくなったあたりから、他者を喪失していくのではないか」
門脇さんは、神戸の少年Aについても「他人の身になってモノを考える能力に欠けてしまったのだろう」という。感情移入する力の欠如だ。そのメカニズムを新生児研究や脳機能の研究で明らかにする課題はまだまだ進んではいない。
親子教室を行っている「家庭教育研究所」の土屋みち子研究員も赤ちゃんのテレビ視聴に不安を感じている。
「ある調査では1歳までの子どもに48パーセントがテレビを見せ続けていました。もっと驚いたのは、6ヶ月前の赤ちゃんに20パーセントがテレビを見せ続けている結果です」
テレビの刺激は一方的であり、見るほうからすれば受け身の状態だ。批判精神が備わっていれば、その情報刺激に対処する術はあるが、赤ちゃんや子どもがその刺激を受ければ、全面的に受容するしかないだろう。土屋さんは、多くの子どもたちの現状を見てきた感想をこう述べている。
「テレビを無防備に見せられると、子どもの意欲や関心の低下につながるのではないか。赤ちゃんが何かに関心を持って、それを見続けるのが大事なのに、意欲が出る前に一方的な刺激を与えるのはよくないと思います」
このようにマスメディアが子どもに与える影響は、さまざまな側面から検討が求められている。早期教育やビデオの問題点。「遊び」や想像力の消失。子どもたちの不気味な兆候。その実体をさらに紹介していく。