上田耕一郎という「私の大学」

―『日本共産党への手紙』私記―

 1990年2月18日。この日投票された第39回総選挙で日本共産党は前回(86年7月)に比べて10議席減の16議席という成績に終った。全有権者との関係で支持率をはかる絶対得票率では6.15%から5.79%に低落。100人いれば支持者は6人弱ということだ。この敗北に89年に東欧で吹き荒れた民衆蜂起と社会主義体制の崩壊、中国で起きた天安門事件が大きな影響を与えたことは否定できない。

 7月9日から13日まで開催された共産党の第19回大会で、不破哲三委員長は中央委員会報告でこう語っている。

「わが党の後退は、社会党への票の集中傾向もありましたが、なによりも天安門事件、東欧問題など国際的な諸事件を利用した反共攻撃に攻め込まれたものでした」

 この投票日から1週間前の2月11日午後12時。東京都練馬区光が丘にある西武系「IMA」の前で共産党演説会が行われた。メインの弁士は上田耕一郎副委員長。光が丘の公団住宅に暮らしていた私は、上田さんと再会できるという思いで演説会に足を運んだ。いや、再会というよりも、ある相談がしたかった……。

* * *

「共産党本部勤務員にふさわしくない」と烙印をおされて84年に新日本出版社を退職した私は、二つの出版社を経てフリーランスでモノを書く仕事を選んでいた。90年当時所属していたのは東京都委員会の練馬地区委員会光が丘団地居住支部。さまざまな職をもった人たち、そして主婦。京都でもそして東京でも居住支部での活動を体験した私は、そこに社会を変えようという善意の志を見てきたつもりだ。

 私と上田耕一郎さんとの接点は大学受験当時にさかのぼる。高校3年のときから不破哲三、上田耕一郎という名前がついた論文を熱心に読んでいた私は、とくに上田さんの文章に人間的温かみを感じていた。あるとき上田さんの著作に収録されていない論文を読みたくなり、ご本人に手紙で問いあわせたことがある。しばらくたってから上田さんははがきでご返事をくださった。どこの誰ともわからぬ若者に返事をくれた上田さんは、やはり質問に対して返事をくれた本多勝一さんと同じく、私にとってますます憧れの対象となっていった。

 その上田さんとはじめて会ったのは高知で行われた「人民大学」という共産党主催の公開講座だった。75年だったと記憶している。懇親会のとき私は「資本主義の全般的危機論」について文書で質問を出した。それはいま翻訳者として活躍している米原万理さんのお父さんだった米原昶さん(故人、元衆議院議員)が行った講義で「資本主義の全般的危機は第三段階だ」と述べたことに対する疑問があったからだ。上田さんは丁寧に答えてくれた。

 懇親会が終って大広間から出ていこうとしたときのことだ。ふと立ち止まった上田さんが口を開いた。

「有田さんはいらっしゃいますか」

 短い会話だったが私は驚きそして感動した。これが最初の出会いだった。

 大学を卒業し、東京にある新日本出版社に就職したのが1977年。この出版社は公明党と潮出版の関係と同じようなもので、党本部の一機構である出版局の指導下にある会社だ。党組織との関係で言えば「本部勤務員なみ」という表現がされ、のちに私が所属した『文化評論』は書記局の指導を受けていた。

 入社した年のこと。上田さんから秘書を通じて会いたいとの連絡をいただいた。私は当時文京区茗荷谷にあった会社から代々木の党本部へ行き、受付の裏にあった小さな部屋で緊張しながら待っていた。そのときの会話は埃をかぶった日記を取り出せば書いてあるのかもしれないが、いまや記憶に残っていない。ただひとつ覚えていることは、私の口から出たひとことに上田さんがムッとした顔つきになったことだけだ。その内容が何であったのか。これまた忘却のかなただ。

 代々木の党本部での上田さんとの交流はこうしてはじまった。とくに私が『文化評論』編集者として本部の通行証をもらってからはしばしば副委員長室におじゃまをした。私が訪れると、いつも仕事の手を休め、論文の書き方から世界情勢の見方、国会での質問準備の仕方、大江健三郎の読み方、加藤周一の『日本文学史序説』のこと、さらには美味しい紅茶のいれかたなど、森羅万象さまざまなことを教えてくれた。ときには宮本顕治委員長(当時)をどう評価するかといったことさえ私は聞いた。上田さんはそんな質問にも答えてくれた。

「思っていることを喋らないのは卑怯なんだよ。僕は常任幹部会でもいつも思っていることを言っている」

 上田さんが私に語ったこの言葉こそ上田さんの組織人としての心がけだった。相手が宮本顕治氏であろうとも自説は臆することなく表明する。政策の見解で宮本氏と意見が食い違ったとき、最後には「君が思うようにやれ」と宮本氏が折れることもあったとも聞いた。のちに小田実さんが憲法問題で共産党を批判したとき、不破哲三氏が小田さんを批判したことがあった。そのときも「不破の意見は違うんだよな」と言うこともあった。

 そんな自由な精神を持っているのが上田耕一郎という人だった。上田さんや共産党を離党した山川暁夫さんから教えられたことこそ人生における「私の大学」だった。

 81年春、私は京都で結婚式を挙げた。東京でも代々木駅前にある理容会館で会費制披露宴を行ったが、上田さんはそこにも出席してくれた。挨拶では私がミニコミ誌など幅広いメディアに眼を通していることを評価したうえで、党の文献をもっと読むべしとの注文もあった。その後の査問にいたる道程を見れば、上田さんは私に少しは期待をしてくれたかもしれないが、同時に危惧を感じていたのだと思う。長男が誕生したときには息子にあてた期待を書いた色紙に奥様との連名でサインを入れてアルバムとともにいただいた。

 ところが上田さんと小田実さんの対談をきっかけとする査問を受けた私はやがて新日本出版社を退職した。

 1か月ほどの猶予をおいて、私はあゆみ出版という教育系の会社に就職する。ある共産党幹部が好意から斡旋してくれた就職だった。16万円ほどだった新日本出版社の給料が一挙に19万円台に上がったことは嬉しかったが、私は不満だった。「赤旗」など共産党のメディアでしばしば名前を見る著者たちの俗物さにへきえきしたからだ。たとえばこんなことがあった。

 大阪で行った家庭教育に関する座談会。2時間ほどたったころだ。何人かがそわそわしはじめた。何だろうかと思っていたら、そのうちひとりの小学校教師が「もうそろそろいいんじゃないですか。あそこ、あそこ」と言った。向かった場所はバニーガールが接待する店だった。女性の網タイツ姿をねっとりとした眼で見つめる彼らの姿。「またボトルを入れておきますからいつでもきてください」と編集長。さっきまで高尚に語っていたことと、ここで書く気も起らない正反対の行動。

 私は仕事の合間に映画評を書き続けた。なかでも小栗康平監督の「伽椰子のために」の評論「『伽椰子のために』と現代の不安」を『シネ・フロント』誌に書いたときには、原作者の李恢成さんに喜んでいただいたことが嬉しかった。私は違った仕事を探そうと思いはじめていた。

 ある日、上田さんから自宅に電話をいただいた。国会の議員会館に伺い、生活の不満を訴える私に上田さんは言った。

「君は教育の専門家になって論文なども書くようになればいい」

 しかし私はあゆみ出版を半年で退職した。85年新年から晩聲社という社員4人の出版社に籍を置いたものの、わずか4か月で経営危機をきっかけに退社。再び職業安定所に通いながら不安で不満な閉塞した日々が続いた。上田さんとの交流も年賀状のやりとりぐらいになった。

 フリーになった私が『朝日ジャーナル』で原稿を書くようになったのが86年。天皇在位60周年をきっかけに草の根から広がった天皇奉祝運動をルポした原稿「若者をとり込む国民”総決起”運動の焦燥」(86年10月31日号)が巻頭を飾ったころのこと。国立市にある上田さんのご自宅に招かれたのはある党幹部と私。昼間から奥様の手料理で酒を飲んだとき、上田さんの好みがバーボンの「ワイルドターキー」だったことを知った。

「これがうまいんだよな」と上田さん。

 2階の書斎を見せていただいたとき、机の上に私が『朝日ジャーナル』の巻頭に書いた記事が切り取って置いてあるのを発見した。心底うれしかった。しこたま飲んでいるとき一本の電話がかかってきた。電話に出た上田さんの表情が一瞬だが曇った。上田さんが笑いながら言った。

「演説会があることを忘れていた」

 赤い顔をした上田さんが出かける準備をしたので、某幹部と私は国立駅前で飲むことにした。酒席の延長で彼はこう言った。

「君が上田さんの家に行ったということは、すべて(秘書から本部に)報告されるのに、(上田さんはそんなことを気にもせず)たいしたもんだよ」

 上田耕一郎とはこういう人だった。

 上田さんは私が新日本出版社を退社するとき「君が辞表を出したからなあ」といった感想を述べるとともに、「長い組織生活をしていたからちゃんと対応できると思っていた」とも語っていた。

 私は査問のすえの追放に「人生の夢は断たれた」というただただ屈服感と屈辱感にとらわれていた。心深くまで錘を垂らした被害者意識の塊そのものだった。街中でかつての同僚の姿が目に入ったとき、顔を合わせることを自然に避けている自分が情けなかった。しかし、上田さんの私への対応が違っていたことは、ほんのいくつかの記憶をたどったとおりだ。

* * *

 90年2月11日に光が丘で行われた演説会。宣伝カーの上から私の姿を認めた上田さんは、秘書を通じて車のなかに入るように伝えてきた。上田さんの演説時間まで私は話し込んだ。

 私はそのときすでに東京都知事選挙に共産党推薦で出馬した政治評論家の松岡英夫さんとともに『日本共産党への手紙』を出版する計画を進めていた。2日後の13日朝10時に目白にある松岡さんを訪れ、そこで最初の打ち合わせをする予定だった。上田さんに相談したかったことはこうした書籍に共産党がどう反応するかという問題だった。個人的感情からいえば、精神をとことん萎縮させる査問など2度と経験したくなかった。83年の査問からすでに7年の時間が過ぎ去ったにもかかわらず、心に刻まれた傷は癒えていなかったからだ。

 「松岡英夫さんといっしょに共産党に関心ある人たちに率直に注文を語ってもらう本を出そうと考えているんですけど」

 どんな言葉が戻ってくるかを気にしつつ私が語ると、上田さんはこういった。

「それはいい企画だよ」

 ホッとした私はおそるおそるといった気持ちでさらに聞きたいことがあった。宮本顕治議長(当時)主導で行われた小田実批判。共産党が機関紙「赤旗」で批判の対象としてきた小田さんを登場させたとき問題になるかどうかを聞きたかったのだ。

「問題ないね。だって小田は党外の人なんだから」

 そう言ってから上田さんは付け加えた。

「だけど君は本部勤務員だったんだから、ちゃんと組織に報告しておかないと駄目だぞ」

 私は上田さんの忠告を守らなかった。党組織に報告すれば出版は不可能だと判断したからだ。このときから私は再度の査問と除籍処分という結末に向かって歩みはじめていったのだった。

  共産党副委員長だった上田耕一郎さんは、私にとって最高幹部というよりも尊敬する先輩といった存在だった。タブーもなく何でも相談できる人だったからだ。新日本出版社を退社してからも、折に触れ上田さんとの交流は続いていた。「哀しい日本人と日本共産党」で書いたような品格を疑わせる共産党員と上田さんは無縁だと思っていた。

 『日本共産党への手紙』を出そうと思った私の偽らざる気持ちは、そのあとがき「自由で建設的な討論を」で書いたことにつきる。ただし上田さんに注意されたものの、組織と相談するつもりははじめからまったくなかった。生活保障などなにもないフリーランスの立場で『朝日ジャーナル』の霊感商法批判キャンペーンに参加してからというもの、私には「党の世界」ではなく「世間」で生きているという自覚が生まれていた。自分の行動については自分の判断でことを進めるべきだ、いつまでも組織の論理をすべての行動の基準に置くべきではないと思いはじめていた。すべて「安全」に、お伺いをたててといった思考から脱するべきだ、とも考えた。

 こうした対応が「組織人」失格だろうとも思っていた。それはわかっていた。しかし、組織に相談することで事情聴取されることを私は怖れていたのだ。いまならわかる。それは最初の査問体験に対する皮膚感覚での嫌悪だった。精神の深いところに沈殿した思いは、自律した行動などという考えよりももっと歪んだものだった。

 ただそうした判断と行動が再度の査問から除籍にいたるなどとはまったく予想していなかった。ひとことでいえば「甘い」。だがその「甘さ」が心を偽らない唯一の方法だった。最初の査問で自分の本心を偽った自己批判をしたことは私にとって屈辱だった。査問されたことではなく、なんとしてでも職場に残りたいという保身からの人格的屈服。どれほど時間が経過してもかつての自分自身が恥ずかしくてたまらなかった。

 上田さんが「いい企画だ」と語った『日本共産党への手紙』。私と教育史料出版会の橋田常俊編集長は、翌2月13日の午前10時、目白にある松岡英夫さんの自宅を訪れた。『手紙』の編者になっていただくことは快く了解していただいた。問題は人選だった。私たちが最終的に選んだのは、共産党に対して現実的な意見、あるいは批判をもっている人たちだった。声をかけようと思ったのは次のようなひとたちだ。

 飯塚繁太郎、井上ひさし、岩井章、岩垂弘、岩見隆夫、小田実、加藤周一、加太こうじ、久野収、小島成一、鶴見俊輔、稲葉三千男、斉藤孝、早乙女勝元、清水慎三、寿岳章子、住井すゑ、田口富久治、田畑忍、中馬清福、堤清二、新村猛、沼田稲次郎、中西五州、野坂昭如、日高六郎、平田清明、藤田省三、星野安三郎、丸山真男、森村誠一、湯川和夫、伊藤成彦、佐多稲子、田中美智子、加藤哲郎、高野孟、黒田了一、伊藤正孝、藤井一行。

 合計40人。私の構想では山川暁夫さんにも書いてもらいたかった。しかし山川さんが書けばそうとうに厳しい批判になることが予想されたので、最初から依頼はせず、のちに計画した『日本社会党への手紙』に参加してもらうことになった。そうした「配慮」もしたつもりだった。

 原稿を書いてもらう、それが大変な場合にはインタビューという方法で原稿をまとめる。私は旧知の、あるいは「この人は」と思った人たちに電話で依頼をはじめた。編集部からは森川明木さんがそれ以外の人たちに依頼をしてくれた。こうした作業が5月末まで続いた。

 その間に松岡さんとの打ち合わせも何度か行っている(3月1日、4月27日、5月26日)。一方で私は3月23日から4月3日までベトナムのハノイに滞在した。ベトナム戦争を指導したボー・グエン・ザップ将軍(当時副首相)からベトナム戦争秘話を聞き、『朝日ジャーナル』に書くためだ。ちょうどベトナム戦争が終結して15周年を迎えるところだった。

 ベトナムから帰国した翌4月4日、私は日高六郎さんに電話をした。日高さんは『新日本文学』に共産党は「反党分子」(なんど眼にしてもすごい、いや汚い言葉だ)への対応を変更すべきだと書かれていた。その内容をもっと詳しく書いていただきたい旨をお願いすると、パリに出かけられるため新たな執筆は無理だという。そこで『新日本文学』の原稿を再録させていただくことにした。

 5月2日午後1時。私は編集担当の森川明木さんとともに茨城県牛久にお住まいの住井すゑさんを訪ねた。住井さんはとてもお元気で共産党の想い出と注文を熱心に話してくださった。『手紙』の原稿で住井さんのお話をまとめた私は次のように書いた。住井さんがかつて親しくしていた党員でその後、共産党幹部になった人の評価である。

 私が文学者として見ていて「共産党的性格」というものがある。人間的に鋭いことです。しかし「鋭い」ということは人間として情がない、非情だという危険も出てくる。私が知っている人も義理人情を踏み越えて、党のために働ける性格を持っています。そういう意味では人間として冷たい。理性的だといえば理性的だし、エゴといえばエゴです。普通は共産党の理論でいくか、義理人情を重んじるか、みんな迷うものです。

 住井さんはご自身の経験としてもっと具体的にその人物の「エゴ」と「非情」を語っていらした。しかし、その具体的な「事件」とその人物の名前を書くことを私は自己規制した。私はいまその人物の名前だけは明らかにする。その後お亡くなりになった住井さんの怒りを思い出すからだ。しかも「哀しい日本人と日本共産党」で書いた私の体験とも重なる。その人物は新原昭治という。

 私は新村猛さん(5月7日、国際文化会館)、稲葉三千男さん(5月8日、東久留米市役所)、星野安三郎さん(5月15日、目黒のご自宅)、田口富久治さん(5月28日、神田の学士会館)といった方々にインタビューや打ち合わせを重ねていった。5月29日には「あとがき」を書くための史料を求めて法政大学の大原社会問題研究所に出かけている。

 このように原稿依頼をするなかで、さまざまな厳しい反応があった。いまでも忘れられない記憶は小田実さん、久野収さん、佐多稲子さんである。

 小田さんとは『文化評論』で上田さんとの対談を引き受けてくださってからのつきあいがあった。共産党からの批判はあったけれど喜んでこの企画に参加してくれるものと思っていた。ところが小田さんは厳しい口調で言った。

 
オレは共産党に不信感があるんだよ。都合によって利用するというのはウンザリや。政党はいつでも変わる。敵になったり見方になったり。だけど市民は変わらんのや。上田さんやあなた方によってオレは傷ついた。それがわかっとるんかと思うよ。

 久野収さんには『文化評論』編集者時代に電話で登場を依頼したことがあった。上田耕一郎さんと対談をしていただけないかというお願いだった。長い電話で久野さんはただひとつのことだけを強調していた。上田さんなら対談をしてもいいのだが、共産党が除名をした人たちを「反党分子」といって攻撃している限り登場する気はないという返事だった。その久野さんは『手紙』への登場を求めるとこう語った。

 何を言っても通らないよ。批判を書いても表向きは「聞いた」というけれど。社共はもうダメ。批判の論理を受けつけないんだ。こんなことでは壊滅するしかない。戦前から喧嘩してきたから言うんだが。

 佐多稲子さんの反応がもっとも激しかった。私は手紙で依頼文をお送りしたうえで電話をかけた。ところが『手紙』のことで、とひとこと言っただけでいきなり電話を切られてしまった。受話器を置くガチャンという音に、拒絶の重さを感じたものだ。あの音の記憶はいまでも鮮明だ。

 
『日本共産党への手紙』は1990年6月に発売された。

 私は出版社とも相談して最終的なゲラ刷り(単行本になるまえの印刷物)を共産党の常任幹部会あてに提出した。「こんな本がでますよ」というお知らせであると同時に組織である以上、党員である私に対して何らかの「指導」があるかもしれないと思ったからだ。当時の気持ちを素直に書けば、私はこの出版が政治問題になることを怖れていた。ひょっとしたら処分されるのではないかという危惧が生まれていた。そうなれば「赤旗」で名指しで大きく批判が行われるかもしれない。場合によっては「反党分子」というレッテルが貼られることになる。あのときの私はまだ「失うもの」があると錯覚していたのだ。

 常任幹部会からの指導はいっさいなかった。

 この『手紙』が世に出てからの反響は大きかった。党本部に勤務する友人がこんな話を伝えてくれた。本部の前には「友好堂」という共産党系の書店があった。『手紙』は新刊本の棚には置いていなかったのだが、カウンターに行って「あれ、ありますか」と聞くと、すでにタイトルが見えないようにカバーを付けたものを机の下からこっそりと出してくるのだという。代々木駅から本部に行くまでの間に「あゆみブックス」という書店がある。そこでは驚くべきスピードでこの本が売れていった。本部職員はこの書店で購入していることがよくわかった。

 ある夜、本部で働いている知人から電話があった。明日の「赤旗」に『手紙』についての論文が掲載される、というのだ。筆者は佐々木一司・社会科学研究所事務局長(当時)。佐々木さんは『前衛』編集長も歴任した方で、私も仕事上で原稿を依頼したりもしていたことがある。うちあわせをしているときにも癖なのだろう、しばしば鼻くそをほじくっていた姿が懐かしい。

 佐々木さんの原稿「『日本共産党への手紙』を読んで」は90年7月3日から3回連載された。個人論文の形を取っているけれど、それが党の見解であることを私は知っていた。上田さんから教えられていた論文の重要度はこういうものだ。

 最高の権威は中央委員会としての見解。次が常任幹部会の名前で発表される文章。かつては「評論員」論文などもあったが、最近では個人論文という形を取っている。その序列からいえば佐々木論文は「個人」の責任を強調してはいるものの、党として『手紙』に登場した支持者知識人にモノ申したんではないという「逃げ」を打っているのだった。

 佐々木論文の大見出しだけを紹介する。それを見れば批判のスタンスは一目瞭然だから。

 「はじめにーこの本のいくつかの特徴」 
 「善意からの批判、忠告と誤解について」
 「異質の日本共産党論ー彼らは日本共産党になにを要求するか」
 「おわりにー企画推進者たちにたいして」

 私はこの長々とした文章を読んでいて、佐々木さんがいつものように鼻をほじくりながら書いていたんだろうな、と想像していた。残念だった。佐々木さんを通じて共産党が言いたかったことは、一言。つぎの文章に集約されている。

 「善意の人たちの文章は、加藤、藤井両氏の悪質な攻撃のカモフラージュに利用されている観さえある」

 15人の人たちが参加してくれたこの本のなかで加藤哲郎さん(一橋大学教授)と藤井一行さん(富山大学教授)の原稿分量が全体の3割を占めていることが問題だと非難したのだ。

 佐々木さんは私が書いた「あとがき」についても「的外れな有田氏の『問題意識』」などと批判をしていた。古在由重さんが健在ならばこのテーマで聞きたかったとの正直な思いを書いたところ、党から除籍された古在さんに触れたことは「底意」が感じられるというわけだ。

 「あとがき」を素直に読めない人たちの被害者意識。私は情けなかった。そこにも書いたように、すべての方に対して思いのたけを書くなり、述べるなりしてください、というのが最初からの方針だった。結果として加藤さんと藤井さんの原稿が多かった、それだけのことなのだ。実は社共の推薦で大阪府知事を経験した黒田了一さんなどは「そうとうに長い原稿になりますけど」とわざわざ枚数のことを問い合わせて来た。私は「制限はありませんからどうぞ思う存分にお書きください」とお伝えした。ところが到着した原稿は長いものではなかった。

 私たちが政治の世界に敏感であったならば、共産党に厳しい批判を書いてきた加藤さんと藤井さんの原稿をもっと削ってもらっていただろう。そんな「計略」を講ずるほどの政治屋的発想は私たちにはかけらもなかった。

 かつて党本部で行われた「理論家養成講座」なる講義で不破哲三氏はこう語っていた。「理論闘争は相手の論理の核心部分を論破しなくてはならないが、政治闘争は相手のもっとも弱いところを批判すればいい」と。『日本共産党への手紙』を出版した私たちは、共産党流の政治闘争の手法で批判されたのである。佐々木さんあるいはゲラをすでに読んでいる常任幹部会の人たちは、私たちの真意を聞くこともしないで一方的に憶測で批判をしたのだった。

 やがて予想通りに査問がはじまった。1回目は90年8月18日。代々木にある東京都委員会。出てきたのは副委員長と組織部長、さらに文化知識人担当など。彼らと話をしていても「赤旗」の佐々木論文のオウム返し。それ以上の独自の話などはでてくるはずもない。もっぱら規律違反だから自己批判せよとの要求だ。私の立場はただひとつ。間違ったことはしていない、『手紙』は共産党のために行った仕事だ、したがって心にもない自己批判など絶対にしない。会話など成り立つはずもなく、ただただ時間だけが過ぎてゆく堂々めぐりだった。
 
 査問の場に設定された会議室に入ってくる日差しはまぶしかった。私の目の前に座っている太り気味の副委員長は、この査問の最中に何度も居眠りを繰り返していた。ひとりの党員の人生の行方に関わる査問。そんなときに本人の真ん前で堂々と舟を漕ぐことができる神経。当時の私はそんな態度に怒りさえ感じていた。しかし、あれから10年が経過して振り返ってみると、あの光景もまったく違ったものに見えている。

 査問する側に立てばわかることは、彼らに当事者能力はいっさい与えられていないことだ。私が何を言おうとも、佐々木「雑文」の立場でそれ以外のことは言ってはならない。査問官の1人、組織部長(現在は東京都委員会副委員長)は、そんな教条的対応ではなかったことが印象的だった。ともかく私の話を聞いてくれたからだ。それでも茶番劇だと思うのは、都委員会などで判断などできるわけはなかったことだ。居眠り副委員長もいやな仕事をこなしていたのだろう。あんな場面で居眠りをするなんて大したものだ。勝手な判断を許していただくとすれば正直な人たちだったのだと思う。あそこで「赤旗」路線でぎりぎりと私を追及しても精神的に疲れたことだろう。

 単純なことだ。あそこで自己批判をすれば規約上で権利停止などの処分が行われている。そして私の党籍は残っていた。拒否すれば除名か除籍だった。

 私は自分の考えをいささかも偽らなかった。過去の査問の態度が恥ずかしくてたまらなかったから自己批判などできるわけがない。まだまだこんな査問が続くのかと気が重かった。

* * *

 90年12月7日。教育史料出版会にいた私に都委員会の組織部から電話があった。

「除籍処分に決まりました」
 
 そうか、と思いながら私は落胆した。いや精神的には奈落の底に落ちこんだ。しばらく混乱状態だった私は気を取り戻して水道橋にあった出版社から外に出た。近くにはグリーンホテルがある。そのロビーにある電話ボックスに入った私は記憶にあるダイヤルを押した。042……。

 受話器が上がる音がした。「もしもし。上田ですが」。いつもの口調だった。

「有田ですけど」

 そういったところで受話器の向こうにとまどいがあった。しばらく無言が続いた。気まずい空白に向かって私は言葉をしぼり出した。

「いま除籍との連絡がありました」

 そう言うと上田さんはこう言った。

「だからやめろと言っただろう!」
 
 私は唖然として言葉もなかった。「やめろと言った」?。私は「そうですか」と言葉少なに言うだけだった。上田さんは急に饒舌になった。

「除名になるかと思っていたよ。除籍で済んでよかったと思っているんだ」

 私は心底驚いた。そうですか、そんなことですか。

 私は上田耕一郎さんに伝えた。

 「長い間いろいろとお世話になりありがとうございました」

 私はそれだけ伝えるとみずから受話器を置いた。

* * *

「だからやめろと言っただろう!」――上田さんの言葉はその口調とともにいまでも私の身体にしっかりと刻印されている。その10か月ほど前の2月12日。光が丘IMA前での会話をしっかりと覚えている私にとって、この言葉は私が尊敬していた上田耕一郎さんのものとはどうしても思えなかった。組織に相談せよとは言われ、それを守らなかった私が除籍されたのは構わない。当然だろう。しかし『手紙』を「いい企画」だといっていた上田さんはどこに行ったのだろうか。それが政治家なのだろうと私はいまでも思っている。私の除籍とともに毎年交換していた年賀状もぴったりと途絶えた。
 

* * *

 除籍通告がなされたからも私は12月12日、12月19日と都委員会で不服申し入れを行っている。最後に査問官側は言った。「中央に判断を求めます。その結果はこちらからお知らせします」。

* * *

 半年が経過した。結果を伝えるといっていたものの何も連絡がない。私は都委員会の担当者に電話をしてみた。その人はなんのこだわりもない様子でただ事務的にこう言った。

「半年前に除籍されていますよ」

 なにをいまさらという雰囲気だった。

* * *

 共産党大会に寄せられた議論を見ていても、自衛隊をどうするのか、規約改定に賛成か反対かといった意見はあるものの、私が最大の問題だと思っている党員の人間的レベルの課題などいっさい議論になっていない。人間こそすべて。共産党が冷たく切り捨てた偉大なる哲学者――上田耕一郎さんもこっそりと葬儀翌日に自宅を訪れた古在由重さんが最後まで関心を抱いていた人間論の欠如こそ共産党の最大の欠陥だと私は心の底から確信している。(完)

 
 

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