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乾いた熱気のなかで、体中から吹き出た汗がベッタリと肌着にまとわりつく。ベトナムを一ヵ月も歩いていると、日本では経験したことのない大気と皮膚との強い一体化さえ感じさせる。
宿泊していたドクラップ・ホテルを出た私はドンコイ通りを歩いていた。鮮やかな青空は、しっとりとした色調のフランス風建築物が多いホーチミン市に似つかわしい景色だった。
九月の終わりの街並み、道路を走る車やバイクの騒音は、噂で聞いていたサイゴン時代の面影を蘇らせるようだ。サンダルをはいた人々の流れは、ゆったりと、しかも足音は新旧の建物が雑炊のように建ち並ぶ街のなかへ吸収されていく。
動と静が奇妙に調和したホーチミン市の街路で、人の動きが急に激しくなった。〈どうしたのだろう〉。そう思ったときには遅かった。私は、人の姿が消えていくのを、まるで時間の速度が他人とズレているような感じでただ見つめていた。
あっという間に大波が被さるように、青空を覆った黒雲から大粒の雨が重たく落ちはじめた。ビービーという自動車とバイクのけたたましい警笛が、あちこちで重なり合い鈍く響きわたる。
細いガラスの柱のような雨。そのなかを走る人々の動きは、まるでこの街の掟から取り残されてしまったような焦りさえ浮かべている。これが雨期に特有の「マンゴーシャワー」と呼ばれる一時間ほどのにわか雨だ。
日本に帰る日の近づいてきた私は、土産物を探すためいくつかの店をのぞいていた。そんなとき、この雨に遭遇したのだった。
連日のように降る雨なのだが、雨期の心構えが身についていない者にとっては、やむなく目の前にある店へ飛び込むしか選択はない。
雨をやり過ごす目的で私が入った店は、中国風の民芸店のように見えた。雨に濡れた顔をハンカチでぬぐい、ざっと店内を見わたしてみると、仙人の置物や絵皿などがショーケースに展示されているのが目に入った。
ホッと息をついたところへ、一人のベトナム人女性が英語で声をかけてきた。
「なにかお土産でも?」
土産物を探しているのは事実だが、雨やどりのためその店に足を踏み入れたというのが本当だ。だから、「そうなのだが……」と言ったまま言い淀んでいた。
二〇歳代前半に見える女性は、「どうぞ」と言って丸いテーブルに案内してくれた。店の入口に近いテーブルの上には、フランス語の辞書とノートが置いてあった。
「日本からですか」
こんな形でお互いの紹介をしているとき、急に灯りが消えてしまった。ホーチミン市でも時々は経験した停電だ。あわてた風もなく立ち上がった彼女は、店の奥の方から一本の蝋燭を持ってきた。
夕暮れのほの暗さのなかに揺れる炎は、一ヵ月のベトナム旅行を終えるのだという小さな感慨から、いささかロマンチックな雰囲気を私の心の中に醸し出していた。
筆談も交えて会話を続けているとき、激しい雨足に色を添えるかのように、鋭い稲光が店内を一瞬明るくする。テーブルの向こうにいる小さな彼女の顔が、蝋燭の炎とともにボンヤリと浮かび上がった。
突然の雨が、思いもかけない話に展開していくとは、このとき私には全く予想もできなかった。
* * *
私が一ヵ月余りのベトナム旅行をしたのは、ある出版社が若者向けに出している旅行ガイドブックの取材をするためだった。
世界各地に出かけるようになった若者たちが、自分たちの計画で、しかも安上がりの旅行ができるよう便宜が計れるというのが、そのシリーズの売り物となっていた。
このシリーズは世界中の国々を網羅してきた。そこで、これまであまり旅行者の目を引くことがなかった地域も取り上げようと、「フロンティア」(辺境)と銘打って企画された一つがベトナムだった。
「ベトナムに一ヵ月ほど行ってみませんか」
ある友人の編集者からかかってきた電話に、私は即座に「行きたい」という返事をした。
ベトナムという国に特に思い入れがあったからだ。それは、アメリカという世界最大の国家を相手にアジアの小国ベトナムが闘い、そして勝ったという歴史の事実に関わっている。
「日本なしにベトナム戦争なし」
六〇年代後半から七〇年代のベトナム反戦運動のスローガンで、よくこういわれたものだった。
アメリカ軍がベトナム人を殺傷する最新兵器に、日本の電機メーカーのエレクトロニクスが使われていたというだけではない。横須賀や沖縄の米軍基地からは、ベトナムへ直接に出撃がなされていたからだ。
高校生なりの正義感から、ベトナム反戦運動にも参加した私にとって、戦争が七五年にアメリカの敗北で終わってからも、このベトナムという国は意識のどこかに引っかかっていた。
ベトナム戦争が終わってからも、たとえばボートピープルと呼ばれた難民たちが、続々とベトナムという国を捨てていた。七九年には、同じ社会主義の国でありながら、中国がベトナムに侵攻するという驚くべき事件も起こった。ベトナムとカンボジアの紛争も続いた。
ベトナム戦争中には「正義」であったベトナムが、一転して「悪」であるかのような論調さえ広がった。
その一方で、ベトナム戦争させ知らない世代が増えてきている。これはのちに二七歳の女性から私に送られてきた手紙に書かれていたのだが、この年代にして「ベトナムへ行く前は、ベトナム戦争と朝鮮戦争とどちらが昔のことなのかも知りませんでした」という状況があるのだ。
ベトナムを旅行するのに、何もベトナム戦争のことを十分に知らなくてはならないというのではない。ただ、戦争がいまなお生身の人間の精神と肉体に深い傷を与えている事実を抜きにして、「ベトナムは食べ物のおいしい国だ」「アオザイ美人のいる国だ」といった水準だけでこの国を見て欲しくなかった。そんなガイドブックにだけはしたくなかった。
一〇〇〇年にわたる中国の支配、フランス、日本、アメリカの侵略を受けたベトナム。それらの国に対し、基本的には自らの力で開放を実現したベトナムをこの目で見ることは、そんな私の思いを十二分に満たしてくれるはずだった。
偏見のない目で、良いところも悪いところも余すところなく見てこよう。こんな思いで、私はベトナムへと飛び立った。
日本からベトナムまでの直行便は出ていない(二年後の九三年には日航が直行便を出すことを計画中)。だから、ベトナムという国に入ろうとすれば、タイのバンコック経由でハノイかホーチミンに入るというのがオーソドックスな方法だ。
私の旅行プランは、あらまし次のようになっていた。まずハノイに入り、ハイフオンなど周辺地帯を一週間ほどかけて歩く、そこでハノイに戻り、ダナンまで飛行機で飛び、北上してフエへ。フエからホーチミンまでは自動車で南下するというルートだ。もちろんホーチミンからミトー、カントーといったデルタ地帯は、その後のスケジュールに組み込んだ。これで約一ヵ月ほどの旅行になる。
ベットリとした熱暑のバンコック。カイタック空港からベトナム航空の飛行機に乗って、ハノイまでは約一時間半の距離。八月末の空港ロビーから飛行機に向かうバスに乗ると、押し寄せるようにムッとした空気が肌にまとわりつく。
ベトナム航空の飛行機はソ連製。飛び立つやいなや、機内中に白い煙がシューッという音とともに広がった。冷房装置が作動したらしいのだが、狭い機内に汗はしたたり落ちるばかりだ。
私の隣に座ったのは年のころ五〇歳代のベトナム男性。テレビなど抱えきれないほどの電化製品の箱をいくつも持ち込んでいた。国民一人あたりの年間GNPが一六〇ドルといわれていた時期だ。世界最貧国のベトナムにあって、外国の電化製品は、財産であるとともにヤミで流せば大きな換金ができる。だから、海外に出たベトナム人たちは、官僚も一般人も競ってこれらの商品を買い漁る。
この男性は、家族四人でオーストラリアへ行っていたという。あとで分かるのだが、いまベトナム人が自由に外国へ行く条件は、経済的にも政治的にもない。だから、この一家がどのような理由でオーストラリアへ行っていたのかは知る由がないのだが、何らかの特権があったのだとは推測できた。
このベトナム男性は、相槌を打つのに必ず「グーッ(Good)!!」と言うのが口ぐせだった。
とくにベトナム戦争に話が及んだとき、私が日本でベトナム反戦運動にも参加したというと、腹の底から「グーッ」と言った。とにかく何でも「グーッ」なのだ。
飛行機が山稜や田園地帯を越えて高度を下げてくると、そこには箱庭のような小さな家の群が目に入ってきた。緑が映える国−それがベトナムという国の第一印象だった。
ドンという音と同時に、飛行機はハノイ郊外のノイバイ空港に着いた。「グーッ」。隣の男性の声は、これで最後だといわんばかりの腹から絞り出す一言だった。
話をしていてなかなか貫禄があるなと思っていたのだが、それもここまでだった。まるで日本の田舎町の駅、しかも昭和でいえば三十年代にタイムスリップしたような趣が空港には漂っていた。
いまでは改善されたが、ここから税関を通って外に出るまでが大変だ。税関で書類をもらおうとすると、すぐ横を「グーッ」の男性が通り過ぎた。声をかけようとするのだが、その表情は気もそぞろで、顔つきも真剣そのもの。家族みんなが「ナショナル」や「サンヨー」の電化製品を手にそわそわしている。いかにして税関を擦り抜けるかにだけ考えが集中していたのだろう。
機内で話をしたときの誇り高さは、税関という現実の前ではいともたやすく萎えてしまっていた。ベトナム戦争では、世界最強とされるアメリカ軍を打ち破ったベトナム人。ところが、戦後の経済復興という闘いでは、なかなか容易に成功しないベトナム人。
この空港での一ベトナム人の挙動は、ベトナムが抱えている明と暗とを象徴的に示しているようであった。
こうして私のベトナムへの旅は始まった。
ベトナムの自然や遺跡の美しさは誰もが賞賛するところだ。ハロン港の奇岩、フエの王宮、ダナンやブンタオの海などなど、思いつくまでに挙げたところで、いくつもの景色が目に浮かぶほどだ。
それまで、ベトナムのガイドブックは二冊が刊行されていた。ところが、大都市や名勝地が中心に紹介されていたため、なかなか地方の見所までには目がとどかなかったようだ。そんな穴場を紹介することも一つの目的だったので、私の旅行もなかなか得難い経験をすることになった。
たとえばハイフォン近郊のドーソン。ここはベトナム最後の皇帝となったバオダイの別荘があるところだ。小高い山の頂に、いまでは朽ち果てたままの建物が立っている。
海辺にホテルがあるのだが、海水浴場として利用されているわけでもない。ホテルに宿泊していたのは、十数人ほどのソ連人と私だけだった。
〈こんなところに日本人が来るわけないのに〉
この土地を案内したベトナム当局を思い、ベトナム観光の前途多難を心配したものだった。ところがこの考えは間違っていた。
夜になりホテルを出て散歩をしたときのことだ。テレビがあるわけではなく、本を読むかカセットテープを聞くのに飽きれば、あとはあたりを歩くしかない。
玄関を出て右手に続く海岸べりの小道へ向かった私は、ソ連人たちの歓声を耳にした。
〈何かあるのだろうか〉
声がする方に行ってみた私は、思わず「ワーッ」と叫んでしまった。昼間に見たバオダイ皇帝の廃墟が小山ごとクリスマスツリーのように点滅しているではないか。
心の鐘が鳴るような響きに突き当たった私が、その点滅しているものが大きなホタルだと分かるまでそう時間はかからなかった。
ソ連人の声は、女性たちの発する「ハラショー」だった。太った彼女たちは、ブラウスの中に何匹ものホタルを入れて、それが点滅するたびに声を上げている。
たとえばこんな情景が、現代日本で体験できるだろうか。ドーソンは一例にすぎない。いったい何が豊かさなのか。高度資本主義の日本は、物質的にも文化伝達についても発達をしている。では、私がここに一端を紹介したベトナムは果たして豊かではないのか。
ベトナムへの訪問は、さまざまな事例を通して、人間と自然、そして文化について考えさせてくれた。
閃暗い蝋燭の炎に浮かんだベトナム女性が語ったことは、ベトナムを去ろうとしていた私に強い印象を刻んだ。
ベトナムを歩いていて、戦争の痕跡はあちこちに見ることができた。それは、とりわけ南部に下がるつれ目立ってきた。カントーのフェリーには、まるで戦争のあらゆる犠牲者が集まっていたかのようだった。両足が切断されたため、両腕で移動をする男。顔が焼けただれ、失明しているので、子供に手を引いてもらっている男。両手首がないので、腕に切りこみをつけて、そこで物をつかんでいる男……。
ホーチミン市のホテルの前にも、枯葉剤の影響と見られる口の裂けた少年の乞食がいた。アメリカ軍のもとでタイピストをしていたが、革命後職を失ったため、路上生活者となった女性。
ベトナムが七五年にアメリカを追い出し、南北が社会主義国となったいまでも、こうした戦争の人間への傷痕は決して癒されはしない。
私が三年前から思いもよらず関わるようになったベトナム人女性も、そうした戦争犠牲者の一人だった。
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