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たたきつけるような激しい雨音に混じり、鋭い閃光と腹の底まで響くような雷の音が続いている。南国特有の一時的な雨はなかなかやみそうになかった。
小さなテーブルを挟んで座っているベトナム人女性は、身長が一五〇センチぐらいだろうか。暑い国の住人らしく、薄手のズボンにブラウス姿だ。路上から吹き込む風に蝋燭の炎が揺らめく。色白の顔が真っ暗な部屋の中に浮かび上がっている。
「あなたは日本から来たんでしょう?」
はじめはそんな決まりきった会話のやりとりだった。どこから来たのか、何をしているのか、観光なのか仕事なのか……。
彼女の名前はグエン・ビッチ・ガーといった。「いくつなの?」年齢を訊いた私は、帰ってきた言葉に驚いた。今年で三〇歳になるというからだ。
「えーっ、本当?どう見たって二〇代のはじめにしか見えないけど」
これが偽らざる感想だった。ガーさんは、はにかんだような顔つきになった。笑うと唇がきゅっと上を向きえくぼができる。小柄で童顔、しかも化粧っ気がまったくないからだろうか、三〇歳にはとても見えない。
こんなとりとめのない話をしているうちに雨が去り、電灯が灯った。明日は最後の取材が待っている。その準備をしなければならなかった私は、仕事が終わってベトナムを去る前日に大理石の皿を買いに来るといってホテルへ戻った。
* * *
翌日の午前中、ホーチミン市から三〇キロほどの距離にあるアンフードン村へ行った。ベトミン(ベトナム人民軍)の元中隊長から話を聞くためだ。このベトミンとは、一九五四年にデイエンピエンフーでフランス軍を打ち破ったことで世界的にも勇名を馳せた軍隊だ。この土地の元中隊長はハイオンさんといった。
前日の激しい雨のため村の共産党事務所で車を降り、そこから責任者の案内でハイオンさんの自宅まで歩くことになった。ぬかるんだ農道をサンダルで歩いていく。通訳のヒエンさんとドライバーのビックさん、それに案内の二人はスタスタと足早に進んでいく。
道すがら、案内の一人が生い茂っている木の幹を指差してヒエンさんに何やら語りかけている。
「アリタさん!! あれを見てください」
名前を呼ぶとき強い語調になるのが特徴のヒエンさんは、木の幹にある小さな穴を見ろという。そういわれて目線を上げ、幹を見るとところどころに穴が開いている。これは第二次世界大戦が終わって、五〇年代にフランス軍と戦ったときの銃弾の跡なのだという。四〇年もの時間が過ぎようとしている。それなのに、当時の戦争の痕跡が自然にまで保存されていることに、いささか驚かされてしまった。
泥道を歩く私はズボンの裾をたくしあげ、なるべくハネが上がらないよう注意しているつもりだった。ところが、三〇分も歩いているうちにズボンやサンダルは泥だらけになってしまった。だがヒエンさんたちは、ズボンどころかサンダルさえもほとんど汚れていない。農村生活が当たり前のベトナム人と都会育ちの私の生活との大きな違いが、こんなところにも現れているようだった。
ハイオンさんの証言は二時間にわたった。ベトナムに進駐していた日本軍の中から、敗戦とともにベトミンに参加した日本人がいたことは私にとって新鮮な事実だった。ベトナム人からピンさん、トットさんと名づけられていた日本人は、ベトミン軍の戦闘訓練なども行っていたが、フランス軍との戦闘で殺されてしまった。
このときの具体的情景を話しているうちに、ハイオンさんは声を上げて泣き出してしまった。それにつられるかのように、ビックさんも目頭を押さえる。
「大日本帝国」の軍人が敗戦をきっかけにベトナムの人民軍に入り、今度はフランスの植民地主義と戦い死んでいったという事実。生き残った日本人の中には、現地のベトナム女性と結婚して、今でも喫茶店を経営している人もいるようだ。
大仰にいえば、人間にとって国家やイデオロギーとは何かといった人生の大問題がある。このひとつの解答が、なにか抽象的な論議の中にではなく、こうした具体的な人間の歩みの中にあるのだと考えさせられたものだった。
この日の午後はホーチミン市近郊のクチに行く予定だった。ここにはベトナム戦争中に解放戦線が地下トンネルを作り、その距離は南ベトナムのサイゴンにまで達するほどだった。トンネルの総距離は三五〇キロ。地下トンネルの中には病院や住居などまでが作られていたそうだ。今は五〇メートルほどの距離のトンネルが観光用に残されている。
人が一人だけ入れるだけの地面にぽっかり開いた穴を、土で固められた小さな足場を踏みながら垂直に降りていく。地面に足がついてからは身を屈めて横に進んでいく。体中にべっとりと汗が吹き出してきた。退くわけにもいかず、ただ前に進むしかない。
しばらくそうやって進み、外の光が見えてきたところで再び垂直に登る足場が作られていた。それを登り、外気に接したときにはうれしさから思わず笑いがこみあげてきてしまった。
アメリカ軍はこのトンネルから不意に現れる解放戦線に手を焼いた。トンネルに水を流し込んだり、爆発物を投げ込んだりもしたのだが、いっこうに効果はなかった。
トンネル経験をして気がついたのだが、アメリカの兵隊は体格からしてこの穴に入ることはできなかった。小柄なベトナム人だからこその効果的な武器だった。
このクチのトンネルにやってきた作家の林真理子さんが、どこかで「こわくてトンネルに入ることができなかった」という趣旨のことを書いていた。失礼ながら、林さんの体格ではトンネルに入ることは無理、というのが体験的な感想だ。
* * *
ベトナムを去る前日、ホテルで目を覚ました私は行きつけの屋台に行った。華僑がやっているその屋台でファーミーワンタンを食べるのが日課になっていたからだ。ファーミーワンタンとは、いってみればきしめんとラーメン、それにワンタンがいっしょになっているものだ。これで日本円にすれば一五〇円ぐらい。うまくて安いとくれば日課とならざるを得ないではないか。
そのあとカフェで珈琲を飲み、くつろいだ私はガーさんの店に行くことにした。
ガーさんが国営の土産物屋で働いているのは、朝七時から夜の七時まで。ドンコイ通りにある店に入っていくと、ガーさんはテーブルに座って英語の本を読んでいた。
「こんにちは。よく勉強しますね」
こういうと、ガーさんは気恥ずかしそうに微笑んだ。日本のことを何かで読んだのだろう。日本には四季があって、季節季節にいろいろな花が咲き、気候が違うのかと聞いてきた。そういわれれば、ベトナムでは雪が降らないから、雪の説明をしてわかってもらうには一苦労だった。
いまではホーチミン市と呼ばれるようになった旧サイゴン市は、いってみればある日突然に解放軍が戦車でやってきて街を占領した。普通の人々にとっては、自分の意思から離れたところで体制が資本主義から社会主義に変わっていった。こんな体験をした人たちは、いったいどんな思いで日々の生活を送っているのだろうか。それをガーさんという一女性の人生の軌跡として知りたかった。
ガーさんの話を総合するとこういうことになる。七五年までアメリカンスクールに通い、この年から八〇年まで医科大学で勉強。医大に行ったのは父親が医者をしていた影響からだった。
ところが革命後の物資不足から、父親は医者の仕事が十分にできなくなった。そこで父親は、七九年にガーさんの弟といっしょにサイゴン港からボートピープルで国を出てしまった。父親たちはまずインドネシアへ行き、難民収容所で一年暮らしてから、希望していたアメリカへ渡っていった。いまはワシントンで暮らしているという。
姉と二人の妹は、七五年以前にフランスに留学していた。だからベトナムには母親とガーさんだけが暮らすことになった。
父親たちが国を出てから、ガーさんと母親は政府に対し合法的出国の申し込みをした。合法的出国は、海外に肉親がいて経済的にも受け入れる条件のあるケースには認められるというものだった。ただボートピープルで海外へ行ったベトナム人が多いため、許可が出るまでには相当の時間がかかった。
ガーさんの場合、父親が医者をしていて経済的にもゆとりがあると判断されたからか、出国願いはアメリカ政府もベトナム政府も認めた。だから、おそらく来年にはアメリカに行く予定だという。ベトナムもだんだんと開放的になってきた。だから来年には初めて許可された二週間のタイツアーに行くのだそうだ。人数は三〇人。旅費は一七〇〇ドル。アメリカにいる家族が金を出してくれた。ガーさんが父親たちと会うのは七九年以来ほぼ一〇年ぶりということになる。
ガーさんに「社会主義ってどう思う?」と訊いてみた。すると、顔をしかめて「好きじゃない!!」と一言でいってのけた。理念や理論で社会主義に異論はなかった私だった。だが、ベトナム戦争という大きな負の遺産から出発したベトナムの社会主義がうまくいっていないことをこの目で見た私は、ガーさんに向かって何の足しにもならない理屈などいえるわけがなかった。
ベトナムの人たちにとって、社会主義は嫌いでもホー・チ・ミンは民族の英雄として特別の存在だった。「共産党は嫌いだがホー・チ・ミンは好き」という意見も常識に近い国民感情だった。だから、ガーさんに「ホー・チ・ミンをどう思う?」と尋ねてみた。「そんなことは考えたこともない」−これが返答だった。もうそれ以上、そんな質問を続ける気にはとうていなれなかった。
「もう明日には日本に帰らなければならないんだ。だから、今晩食事でもしませんか」
軽い気持ちで誘ったのだが、ガーさんの戸惑った表情に私は驚いてしまった。
「母が待っているから……」
生活のことをいろいろ聞かせてもらったとはいえ、ほとんど知らない人の事情などわかろうはずもない。嫌がっているのに強引に誘うほど野暮でもない。
「じゃ、記念に写真を撮らせてもらいたいんだけど」
こういうと、これまた言下に「困ります」といわれてしまった。今度は私が訝しげな顔をしたのだろう。
「実は……」
こう話し出した彼女の話は、日本人の私にとってとうてい想像の及ぶものではなかった。
「実は、あなたと食事をしたりすると、あとで公安にどう処置されるかわからない。ベトナムでは、外国人とプライベートに食事をしたりつき合ったりすることはとっても難しいんです。特に今はアメリカへ行く許可が出たところだから……」
「わかった。十分にわかった」
私にはこう答えることしかできなかった。ベトナムの公安とは、日本流にいえば警察に当たる。この公安が合法的出国の許可を出しているのだった。「公安新聞」にはその名簿も順次掲載されていた。
私は日本の住所を渡し、またどこかで会う機会があればといって店を後にした。
* * *
私はホテルの最上階にあるバーで「サイゴン」というカクテルを飲みながらベトナム最後の夜を過ごしていた。バーテンダーに闇市で手に入れたカセットテープを渡し、店に流してくれるよう頼んだ。
やがて甘く切ない曲がバーいっぱいを包み込んだ。カウンターの中でうつむきかげんに座っているアオザイ姿のホステスが、パッと明るい顔つきになった。
「あなたが持ってきたの?」
おそらくそういったのだろう。ベトナム語のわからない私は、彼女の表情からそう理解した。彼女は小さく呟きながら、曲に合わせて体を小刻みに動かしていた。
私が流してもらったのは、カイン・リーという女性歌手のテープだった。闇市で「革命前のサイゴンでいちばん流行っていた歌手のテープを」といったらこれを出してきたのだった。カイン・リーは亡命してアメリカに住んでいた。
アルコールが体に染み込んでいくにつれ、私はガーさんと社会主義のことを考えていた。ガーさんたちが、ベトナムという生まれ育った国を捨てるのはベトナムにとっての損失だ。資本主義に住んでいた人間が、体制が変わることによって貧困になったとき、資本主義がというよりも、前の生活がいいというのは当たり前の感情だろう。ベトナムの経済建設の失敗は大きいといわざるを得ない。
確かに、通訳をしてくれたヒエンさんのように貧しい農村出身の人たちにとって、社会主義が保障する教育の機会均等などは大きな魅力だったことだろう。ベトナム戦争中にあってモスクワ大学に留学できるなどということは、ヒエンさんに能力があったからとはいえ、社会主義であればこその特権だった。
しかし、ヒエンさんに代表される社会主義の幸福は、ガーさんにとっては不幸でしかなかった。一人の人間の人生は社会主義の理念や理論では計り切れないのだ。革命で資本主義の支配者たちが不幸になることは止むを得ない場合が多い。多くの人たちを不幸にしてきたからだ。そんな人生のバランスシートはあるものだ。
しかし、ガーさんは資本家でも何でもない。ただ普通にベトナムの暮らしを日々送ってきたにすぎない。ところが革命が起こったことで家族は離散し、なりたかった医者の道も諦めなければならなかった。父親たちのいるアメリカへ行くことが最優先だったから、恋愛をしても結婚にまでは踏み切れなかった。これを不幸といわないだろうか。
「サイゴン」をしこたま飲みながらこんなことを考えているうちに、ベトナム最後の夜は更けていった。
* * *
翌日、タンソンニャット空港へ向かう途中で車を止めてもらいガーさんの店に寄った。
「いまから帰るので……」
ガーさんは唇をきゅっと上に曲げてにっこりと笑った。
「ヘン ガップ ライ」
「さようなら」というベトナム語のアクセントは、別れを告げる言葉にもかかわらず、日本人の私にはとても甘く美しく聞こえるのだった。
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