開高健さんお気に入りのホテルからホーチミン市内を眺める

(前回までのあらすじ)
 旅行ガイドブックの取材でベトナムを訪れた私は、ホーチミン市でガーさんというひとりのベトナム人女性と知り合った。ガーさんの父親は七九年にボートピープルとしてベトナムを去り、現在アメリカで医師をしている。ガーさんも近くアメリカへ行く予定だという。ある日、私はガーさんとベトナムの社会主義などについて語り合ったあと、夕食に誘った。すると、彼女は困惑したように申し出を固辞するのだった。なぜなのか。それはまさしく、かつて閉ざされた社会主義国だったベトナムの残滓にほかならなかった。

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 日本に帰ってきた私は、ベトナムの旅行ガイドブックを仕上げることに集中した。何百枚も写した写真を見ながらベトナムの風景や知り合った多くの人たちの顔を思い出すと、文字にすることよりも感慨に耽ってしまうことのほうが多かった。

 ベトナムに行く前、飛行機の都合でバンコクで二泊した私は、初めての国をあちこちと歩き回った。タイの印象はバイクや自動車のけたたましいばかりの喧騒であり、そこに生きる人たちのエネルギッシュな顔つきだった。

 そんな国を経由してベトナムを一ヵ月ほど歩いていると、いつのまにか生活のテンポや感覚もベトナム風が身についてしまったようなのだ。たとえば喧騒を当たり前のように感じることや、たいして急ぐ用事もないのに早足になるといった日本での生活は、ベトナム生活一ヵ月ですっかり忘れてしまっていた。

 日本へ帰るため、私はバンコクで一泊しなければならなかった。だが、空港からパレスホテルへとタクシーで直行した後、部屋から外へ出る気がしなかった。シャワーを浴び、「クロスタービール」というタイのビールを何本も飲みながら、旅の間じゅう書き続けたノートをぼんやりと開いていた。

「バンコクでタクシーに乗り、ものすごい車の量を見ていると、ベトナムという国がなんとも不思議に思えた。印象からいうと『緑美しく、民貧しき国』と、この前このノートに書いた。しかし、正確にいうと『三〇年の戦争にもかかわらず、緑美しく民貧しいが知にたけた国』というのがキャッチフレーズ的結論か」

 こんな思いを体の底から皮膚感覚で身につけていたので、日本に帰って来てからもなかなか社会復帰できなかったというのが正直な気持ちだった。体験した鮮烈な印象を文字にするところに、どこか嘘臭さを感じてしまうからだ。

 そんな思いを振り払いながら原稿を書き進めるうちに、やがて年が改まっていった。ベトナム研究者や旅行体験者の原稿も集まり、私の責任が離れたのは四月になってからだった。

 だが、どんな運命の取り合わせなのか、ベトナムとの関わりは向こうから飛び込んできた。八九年五月から夏にかけて、何度も何度も"難民船"が長崎県を中心にやってきたからだった。後に、この"難民"たちの多くはベトナム難民を装った中国人だったことがわかった。だが、黄金の島である日本へやってきた中には、中国人だけではなくベトナム人も入っていた。

 私は長崎県大村市にある大村難民レセプションセンターに二度ほど足を運び、"難民"たちから話を聞いた。東京・品川にある難民救援センターでの取材も行った。そんな仕事の中で知り合ったランさんという三四歳の女性は、夫と三人の子供を連れて日本にやってきたのだった。

「船の中では吐いてばかりいたので、どこをどう通ってきたかはよく覚えていません」

 こんな証言をするランさんは、苦しそうな顔をして手で吐くまねをして、自分の体験を詳しく語ってくれた。だが、自由を求めて日本にきたのであって金儲けに来たのではないとか、ベトナムで国を挙げて取り組んでいたドイモイという改革を知らないといった発言は、実際にベトナムを見てきた私にはなかなか腑に落ちないものがあった。だから、ランさんに何回も会って話を聞いているうちに、この目で確かめてこようという気持ちにどんどん傾いていった。

 ランさんが生まれ働いていた炭鉱は、ベトナム北部のクアンニン省だという。"難民船"が出た港もクアオンと名前がわかっていた。

                     * * *

 私が再びベトナムを訪れたのは、その年の秋だった。結論からいえば、ランさんの証言はすべて虚偽だった。

「いったいどうなっているのだろうか」

 私は、日本に帰ってからランさんにこの取材の結果を知らせ、何が本当なのかを訊くことに躊躇があった。本人たちが嘘をついてまで隠そうとする理由がそこにある以上、他人である私がそれを暴く権利など何もないと考えたからだ。そんな思いに取りつかれながら、私はハノイのトンニャットホテルで最後の夜を過ごした。

 この旅行では、ベトナム政府が力を入れているドイモイを、ホーチミン市の企業や新聞社の現場から見ることをもう一つの目的にしていた。ホーチミン市に向かう日の朝、私は空港へ向かうため、朝四時に目を覚ました。外は篠突く雨。空港へ向かう車に乗っていても、はたして飛ぶのだろうかと心配するほどの激しさだ。

 空港に着き、ロビーで手続きをしていると、ばったりと昨年の旅行の時通訳をしてくれたヒエンさんに会った。彼女と雑談を交わしているうちに、いつの間にか雨は上がってしまった。

 飛行機は定刻の六時半に空港を飛び立った。空路はまさしく雲の海。もくもくとわきあがる雲の上を飛ぶソ連製の飛行機は、八時半にはホーチミン市郊外にあるタンソンニャット空港に到着。

 ハノイと比べて南部は陽差しが違う。ジリジリと体を刺すような暑さだ。空港からは、外務省の新聞局が用意してくれた車で直ちに宿泊先のクーロンホテルへ。サイゴン時代はマジェスチックホテルと呼ばれ、ベトナム戦争に新聞記者として従軍していた開高健が滞在していたことでも知られているホテルだ。

 部屋の窓からは目の前にサイゴン港が見える。部屋に荷物を置き、新聞局のデイエップさんと簡単な打ち合わせをした私は、すぐに街に飛び出した。

 一年前と変わらない街並みを歩いているうちに、私はガーさんが働いていた店に行ってみようと思った。昨年の一〇月に会った時、ガーさんは来年の二月には母親とアメリカに行けるだろうといっていた。ガーさんがいつアメリカに行ったのかを聞いてみたいと思ったからだ。

「アメリカに行ったらあなたに手紙を書きます」。こんな約束をしていても、たった数回会話を交わしただけの間柄では、そんな約束も実現するとは思わなかった。だから、一年経っても手紙が来ないことを不思議に思う気持ちもなかった。もしアメリカの住所がわかれば、手紙を出してみよう。そんなことを思いながら、ガーさんが働いていた民芸店に入っていった。

 店の中に足を踏み入れ、あたりを見回した私は驚いた。ガーさんがいるではないか。彼女も目を見開いて驚いていた。

「どうしたの?アメリカは?」

 こういったところでお互いに笑い出してしまった。二人とも、あまりにも驚いた顔をしていたからだ。

 彼女がいうには、アメリカに行くことは許可が出ていたのだが、なかなか順番が回ってこなかったのだそうだ。

「おそらく来月には行けるということなんだけれど……」

 こういうガーさんは、去年と同じように口をキュッと上に結んで微笑んだ。だが、ガーさんはアメリカでの生活に希望を持っているようではなかった。医者の父親は、アメリカ政府の派遣でアフリカに行っているというのだ。

「アメリカ人は冷たいので、ベトナム人は住みにくいんです。だから、本当はアメリカで住みたくないんだけど」

「だけど、行けば家族が一緒になれるんでしょう」

「そう。だから行くんだけど……。いつまでもいたいとは思わない。できたら、いつかフランスに行って暮らしたいと思っているの」

 彼女が英語だけでなくフランス語も話せるぐらい勉強していたのは、そんな夢を抱いていたからなのだとその時わかった。

 二時間ほどあれこれと話をしているちに昼がきてしまった。仕事の予定もあったので、私はまた来ることを約束してホテルへ戻った。たった三日しかないホーチミン市での生活だった。私は取材の時間を除いてできるだけガーさんと話をしようと思った。

 翌日は午前中の取材がキャンセルとなってしまった。そこで、街の喫茶店に行ってカフェダーというアイスコーヒーを飲みながら、午後に控えていた「公安新聞」の取材の準備をした。「公安新聞」とは、日本でいえば警察の新聞で、驚いたことに警察の腐敗を暴露するので市民の間では爆発的に読まれていた。

 ホーチミン市には、この「公安新聞」と並んで「若者」と題する新聞もよく読まれていた。これはホーチミン市の共産青年同盟が発行しているもので、共産党幹部の腐敗ぶりや頽廃ぶりをズバズバと告発していた。

 「公安新聞」の取材も二度目だった。編集長のグエン・アン・リンさんから話を聞き終えた私は、その足でガーさんの店へと向かった。

「やあ、こんにちは」。そういって店に入って行くと、ガーさんはいつもと違って店の奥にある従業員の休むソファーに連れていってくれた。

「何か飲みますか?冷たいものがいいでしょう?」

 この日は、アイスコーヒーを飲みながら、ガーさんの同僚のミンさんという男性を交えて話をした。

 話をしている間にも店にやってくる客に対応しているガーさんの姿は、小柄ながらスピーディーな身のこなしようだった。これはなにも彼女に限ったことではない。「女がいなければベトナム戦争には勝てなかった」と、日本でよく聞いていた。それが、ベトナム女性の働きぶりを見ていると実感としてわかるのだった。印象からいえば、男よりもずっと敏捷に働いている。

 この日の話は、長時間働いていながら、それに反比例していかに低賃金なのかという嘆きだった。ガーさんは、朝の七時半から夜六時半まで働いていた。一一時間労働だ。それで月給は五〇ドル。日本円にして約六七五〇円。物価水準が違うというものの、ベトナム経済の現状を象徴する数字だった。

 この日はミンさんも一緒だったので、昨年とは状況が違うと思い、気軽に「食事でもしませんか」と誘ってみた。ガーさんは曖昧な表情だったのに、ミンさんは乗り気だった。そこで、夕方に店で落ち合うことにして私はホテルに戻った。

 ところが、である。ホテルで休んでいると突然電話が鳴った。

「アリタさん? ミンです。残念ですが、夕食をご一緒にできなくなってしまいました。急に仕事ができてしまったのです。それにガーさんは、やはりアメリカに行く前にはちょっとといって困っているようなので」

 私は「わかりました」というほかはなかった。ガーさんにとって、アメリカで暮らすことは嫌だといっても、待ちに待った家族との再会と新しい生活が始まろうとしていた。昨年、食事をするのも記念写真を撮るのも、当局から監視されているからと躊躇したガーさんの気持ちはまったく変わっていなかったのだ。

                      * * *

 受話器を置いた私は複雑な気持ちで、一年前のある体験を思い出した。日本からホーチミン市に仕事で来ている商社マンに連れられてダンスパーティーに行ったときのことだ。

 バクダンという有名なレストランの二階でダンスパーティーは行われた。入口を入ると真っ暗闇に近いほどで、なかなか内部の様子が見えない。係りに案内されて狭い通路を歩いていく。

 商社マンが待ち合わせをしていたのは女性が三人、男性が一人。テーブルに座った私をみんなに紹介してくれた。そこで、今度は商社マンにみんなを紹介してくれと頼むと、「そのうちにわかりますよ。必ずどこかで会うことになりますから」と、なにやら謎めいたことをいう。

 そういわれれば、その「どこか」を期待しながら待ってやろうといささか冒険心をかきたてられながら、私はあえて聞き返さなかった。

 やがてスローなテンポのダンスが始まり、みんなはわっとホールへ殺到していった。ダンスなどとはこれっぽっちも縁のなかった私はただ戸惑うだけだった。そんな様子を見たからだろう。一人のベトナム人女性が「私が教えてあげましょう」と英語でいって、手を引いてホールへと連れていってくれた。

 バンドの曲はスローからアップテンポに、そしてディスコへと変わっていった。そんな時間はあっという間に過ぎていった。

「明日の仕事がありますから」と一人のベトナム人女性がいうと、「私も」とみんな引き上げていった。もう一〇時半を回っていた。そこで、私と商社マンはホテルに引き上げることにした。

 レストランの外に出ると、降っていた雨はいつの間にか止んでいた。数歩歩いたところで、「マネー」といって少年の乞食が近寄ってきた。左足を引きずっているのだが、それはたんに一方の足が短いといったものではなく、複雑に何段にも折れ曲がっている。ホーチミン市では、顎がなく口が裂けた子供の乞食もいたが、私には、こんな障害者がいるのはベトナム戦争で使われた枯れ葉剤の影響だと思えてならなかった。

 私たちは「ダメ!」といって、追いすがる少年を後にホテルへの道を急いだ。そこで私は商社マンに声をかけた。

「ベトナムでは今でも外国人との交際は禁じられているんですか」

 こういってガーさんのことを話すと、彼は「今では昔のようなことはないけれど、以前の経験がベトナム人の意識の染みついているんでしょう」といって、自分の経験を教えてくれた。何年か前に、親しくなったベトナム人女性の誕生日に招ばれたことがあったそうだ。そこで自転車に乗って彼女の家に行き、何人かで祝ったのだが、ことは何日か後に起こった。彼女の自宅に警察がやって来て、ここに外国人が来ただろうとしつこく訊いて帰ったのだそうだ。それ以上の問題にはならなかったのだが、こんなことがあれば、悪いことをしていなくても、誰でも萎縮してしまうだろう。

 ベトナム人たちがそんな感情を持っていることを改めて知ったのは、何日か後に意外なところでダンスパーティーの女性たちに会った時だった。

(第三回終り)

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