開高健さんお気に入りのホテルからホーチミン市内を眺める

(前回までのあらすじ)
 なぜ、あのときガーさんは食事の申し出を固辞したのか。それから写真撮影さえも。ガーさんはすでにアメリカに行っているはずだった。ふたたびベトナムを訪れた私がそれを承知でガーさんの店に行ったのは、彼女のアメリカでの住所がわかればと思ったからだ。そして、彼女の気持ちと現在のベトナムがどう重なっているのかを確かめたかった。ところが、ガーさんはいまだベトナムにいた。渡航許可は出ているのだが、なかなか彼女の順番が回ってこないのだという。今度はガーさんの同僚の男性とともに夕食に誘ってみた。しかし今度も遠回しに断ってきた。かつて、ベトナムでは警察の監視が厳しく、特に外国人との交流にはしつこく目を光らせていたという。そんな記憶が、彼女の行動を必要以上に萎縮させているらしかった。

                    * * *

 ホーチミン市には、たいていの観光客が足を運ぶ名所がある。その一つが、レックスホテルで毎週二回行われている「民族芸能の夕べ」だった。

 旅行ガイドを書くには、やはりこういう場にも一度は顔を出しておく必要があるだろう。そう思った私は、帰国も間近なある夜、レックスホテルに行ってみることにした。

 最前列で座って待っていると、開館時間が迫るにつれ、ロシア人の団体客で会場はほぼ満席に。やがて会場の照明が落ち、舞台の幕が上がった。

 アオザイを着た女性たちや民族衣装姿の男性たちが、伝統的な楽器を手に次々と軽妙な曲を奏でていく。日本人もいるからということなのだろう。そのうちに、琴の演奏で「サクラ サクラ」が始まった。

 その演奏者をじっと見ていた私ははっとした。何日か前に、レストランのダンスパーティーで未経験者の私にダンスの手ほどきをしてくれた女性だったからだ。

「そうだったのか」

 あの夜、彼女たちが何をしているかはそのうちにわかるといった商社マンは、この「夕べ」のことをいっていたのだ。答えがわかった私は、舞台に出てくる女性たちの顔に注目することにした。化粧をしているのだが、そこにはダンス会場で紹介された女性たちが全員いるではないか。

 やがて出し物が終わった。何も知らない通訳のヒエンさんは「帰りましょう」という。私は「ちょっと知り合いに挨拶がしたいので」といって、出演者が出てくるのを待っていた。

 そのうち、普段着に着替えた出演者たちが三三五五ロビーを通って帰り始めた。ダンスを教えてくれた女性は、かなり高齢の男性と一緒に姿を見せた。

「こんにちは。今日はとてもよかったですよ」

 こう声をかけると、一瞬驚いた顔つきになった彼女は、すぐ平静な顔になり、にっこりとうなずくだけだった。

 ヒエンさんは「アリタさん、どうして彼女を知っているんですか」と不思議そうに問いかけてきた。しかし、彼女たちが外国人とダンスパーティーに出席したなどとはいわないと約束した以上、いくらお世話になっているからといってヒエンさんにも教えるわけにはいかなかった。

 こんな経験を前の年にしていたものだから、ガーさんがあくまでも食事に同席できないというのは、頭の中では理解していたつもりだった。しかし、自らの体験の中で、そんなことが何度も繰り返されるとは思ってもみなかった。ベトナム人の人たちにとって、外国人と付き合うことはそれほど大変なことだったのだ。

 二度目のベトナム訪問最後の日。飛行場へ向かう前に、もう一度ガーさんに会いに行くことにした。彼女のいうとおりだとすれば、間もなく希望していたアメリカ行きが実現することになる。そうなれば、ひょっとするともう会うこともないかも知れなかったからだ。

 彼女の苦労話を聞いたことは、どこか私の心に落ち着かない気分を生じさせていた。ジャーナリズムで仕事をしている以上はやむをえないことなのだが、他人の人生を事細かに聞き出すことにいつも後ろめたさがつきまとっているからだ。相手はこちらの人生を知らない。なのに、仕事とはいえ人のことを聞き出すことにどこか傲慢な気がしてしまうからだ。

 テレビなどを見ていると、レポーターが突撃取材などと称して様々な人にインタビューを試みようとする姿がよく画面に出てくる。相手が何らかの権力を持っていて、何らかの事件に関わっていたりするのなら構わない。しかし、被害者や問題とされた当事者ではなく、家族などに対する行き過ぎた取材がことさら目につく。

 ガーさんの目に、私がそんな人間にだけは映ってほしくなかった。そんな思いがあるものだから、音楽好きの彼女にプレゼントをしようと思った。仮にもう会うことがなくとも、こんな日本人もいたのだと、いつか思い出してくれればいいと考えたからだ。いろいろなことを話してくれたこと、異国の地で知り合うことができたお礼だといった手紙を書いて、私はヘッドホンステレオと阿川泰子のカセットテープを彼女に手渡した。ガーさんは、私の気持ちを素直に受け取ってくれた。

 飛行機の時間が迫っていた。私とガーさんは挨拶もそこそこに握手を交わして別れた。

                    * * *

 日本に帰った私とベトナムとの関係は続いていた。一つはベトナム難民の取材であり、もう一つはベトナム戦争終結一五周年をめどに、戦争を指導した謎の将軍ボー・グエン・ザップからインタビューする仕事があったからだ。

 三月のある夜、郵便受けを開けた私はガーさんからの封書を認めた。ベトナムから帰ってからも、私はガーさんから手紙をもらっていた。プレゼントのお礼だといって、石を彫って作った仙人の置物も送ってもらっていた。

 だから、まだホーチミン市にいるのだろうと思って、無意識に封筒を裏返して見た。いささかアルコールの入っていたせいか、思わずあっと声に出してしまった。差し出しの住所は、アメリカのバージニア州となっていたからだ。

 封筒の中には、ホーチミン市で写したと裏書きされた一枚の写真も入っていた。アメリカに行けば必ず自分の写真を送るという約束を守ってくれたのだった。手紙には、一一月の予定が延びたけれど、二月にベトナムからアメリカに来たと書いてあった。文面からはガーさんの元気な様子がうかがえた。

 その後、彼女とは何度か手紙のやり取りがあった。だが、手紙の文面はどんどん暗くなっていった。法律事務所で働いていることは書いてあるのだが、具体的なことはほとんど書いていなかった。その代わり、「辛い」「寂しい」などという言葉が何度も何度も繰り返し記されていた。「いったいどうしたというのだろう」、そう思ったところで、日本にいる私にできることといえば励ましの手紙を書くことだけだった。

 しかし、こんなことを運命とでもいうのだろうか。九月に入ってから、突然にアメリカへ行く仕事ができた。日程は一一月の一〇日間。そのうちの二日ほどをカナダとの国境に近いロチェスターというところで過ごし、朝日ビールの宣伝で知られるようになった大学教授から数時間話を聞けばいいだけだった。そのほかはニューヨークでジャズを聴こうがミュージカルを観ようが自由だという。「よし、ガーさんに会おう」そう考えた私は、二つ返事でこの仕事を引き受けた。

 一一月一七日の夕方に成田を発った私は、時差の関係で同じ日の午後二時半すぎニューヨークのケネディ空港に着いた。

 会いに行くと伝えた手紙に、ガーさんはとても喜んでくれた。彼女からの返事には、空港かホテルから電話をかけるようにと自宅の番号が書かれていた。そこには、家族みんなで歓迎するからぜひ泊まっていってほしいとも添えられていた。

 ケネディ空港からニューヨーク市内にあるホテルに入った私は、ほとんど眠っていなかったので、ブルーノートという有名なジャズの店に行く前にひと眠りすることにした。

 しかし、服を着たままベッドに横になっても、「ガーさんに電話をしなければ」ということばかりが気になった。ベッドから起き上がった私は、受話器に手を伸ばしダイヤルを回した。

 何回か呼出し音が続いた後、受話器を取る音がした。向こうから男の声が聞こえた。

「日本から来たアリタです。ガーさんをお願いします」

 こういったところ、電話の向こうからは思いもかけない言葉が返ってきた。

「彼女はここにはいません」

「どうしてですか? この番号にかけるようにいわれているんです」

「電話は変わったんです」

「それでは、新しい番号を教えてください」

「彼女と連絡が取れないのでわかりません」

こんなやり取りが続くばかりでいっこうに埒が明かない。電話を切った私は、何ともいいようのない複雑な気持ちに囚われていた。ガーさんから連絡先を知らせてきたのはアメリカに発つ直前だったからだ。どうしようかとしばらく考えてみたが、こうなれば手紙に書かれた住所に行ってみるだけだ。よし、明日の朝一番でワシントンに飛ぼう。

 そう思い立った私はいつしか眠り込んでいた。仮眠から覚めた後、ブルーノートにジャズを聴きに行ったものの、心のなかはガーさんはいったいどうしてしまったんだろうという気持ちでいっぱいだった。

 翌朝、ラ・ガーディア空港に行き、エアバスと呼ばれるワシントン行きの定期便に乗った。ニューヨークからワシントンへの便は一時間に二本。空港でチケットを買うのに自動販売機にカードを入れ画面を押すだけというのも、日本での手続の煩雑さに比べて驚かされたものであった。

 一応、この日に会いたいということは事前にガーさんには知らせてあった。だから、ひょっとしたら空港に来てくれているのではという淡い期待も抱いていた。彼女の手紙には、電話をくれれば空港まで迎えに行くと書かれていたからだ。

 空港ロビーに出た私は、キョロキョロと辺りを見回しながらガーさんの姿を捜し求めた。期待は見事に裏切られた。

 私はやむなくタクシー乗り場へ向かった。一台の車に乗り込むと、バージニア州の住所を示し、そこまで行くよう頼んだ。地図で調べると、ワシントンからバージニア州のガーさんがいるはずの場所まではそんなに離れていない。半時間も走ればそこに着くはずだった。

 ハイウェイを軽快に走るうちに、車窓からは立ち並ぶ住宅が見え始めた。「この住所だともう近いですよ」。こういうドライバーの言葉に私は興奮した。はたしてガーさんは教えてくれたところにいるのだろうか。もし昨日の電話が本当で、そこにいないのだとしたら、ガーさんは私に嘘の手紙を書いたことになる。何が本当なのだろうか。それも手紙の住所に行けばわかることだ。そんな釈然としない気持ちを抱きながら、私は外の景色を見続けていた。

「ここです」

 ドライバーの一言で、胸が高まるのがわかった。車は清潔そうな平屋の前に止まっていた。

 小さな庭を歩き階段を上る。数回ドアをノックする。ドアの向こうから女性の声がした。足音がしてわずかにドアが開いた。そこにはベトナム人女性が立っていた。が、ガーさんではなかった。私がガーさんに会いに日本からやってきたことを告げると、その女性は私の旅行バッグを部屋に入れ、ちょっと待てという仕種をしてドアを閉めてしまった。

 どうしたものかとドアの前に佇んでいると、再びドアが開けられた。今度はベトナム人男性が姿を見せ、吐き出すように一言いった。

「彼女はここにはいない」

 彼は私のバッグを外に押し出した。あっという間の出来事なので、何のことなのか理解する暇もない。どうしたものかと考えていると、さきほどの女性がまた顔を見せた。そして、ついてくるようにと促して、家の後ろの方に歩いていった。

 そこには家の地下室に入る階段があった。案内の女性は階段を下り、そこにあるドアをドンドンと叩き、ベトナム語でなにやら叫んだ。

 ドアが開く。ガーさんがいた。

 お互いの顔を見つめるだけで、ただ微笑むだけだった。そのうちパジャマ姿に気づいた彼女ははっとした顔つきになり、「ちょっと待って」と英語でいうと、小走りにフロア奥にある部屋へ入っていった。

 その間に地下室を見渡した。壁には子供が描いた絵が何枚も貼ってあり、部屋の隅にはおもちゃの自動車などが置いてある。そこから一階に上がる階段がある。窓は一つだけだから薄暗い。

 やがて軽装に着替えたガーさんが出てきた。

「昨日ニューヨークから電話したんだけど……」。そういうと、彼女はすまなそうな顔をした。「ついこの間番号が変わったんです」。こういって新しい番号をノートに書いてくれた。「電話したら男の人が出て」とホテルからの電話の顛末を話すと、彼女は怒った口ぶりで事情を語り出した。

 電話に出た男とさっき荷物を外に出した男は同一人物で、ガーさんの姉の結婚相手だった。ガーさんはこの地下室で妹と暮らしているが、義理の兄とは口も聞かないそうだ。そんな仲の悪さは、ベトナムから来た彼女たちをお荷物と考えることから生じたのだという。「ベトナムで同じ苦労をした彼らがどうしてそんなことに」とは思ったが、久しぶりの対面でそれ以上のことを訊くのははばかられた。

 ガーさんは、法律事務所での大変な生活ぶりを、「昼食時もパンをかじりながら書類を書いている」といったエピソードなどで教えてくれた。

 やがて彼女の弟とその妻がやって来た。四人で食事に行こうという。私たちは車でチャイニーズレストランに行き、その足でホワイトハウスやベトナム戦争で死んだ人たちの墓などを見学した。

「どこかほかに行きたいところはありますか」こう訊かれたので、ベトナム戦争が終わる前に南ベトナムで最も人気のあった、カイン・リーのカセットテープを買いたいと頼んだ。すると、彼らはベトナム人と中国人だけが利用している市場へ連れていってくれた。そこに足を踏み入れると、ベトナム語が響き、ベトナムや中国の音楽が流れていた。

 こうやって彼らと時間を共有しているうちに、どうしてガーさんが私に家族全員で歓待するので泊まっていってくれという手紙をくれたのかが理解できるようになってきた。(続く)

All copyright 2000-2001 Yoshifu Arita. All Rights Reserved. E-mail: arita@gol.com