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(前回までのあらすじ)日本に帰った筆者のもとに届いた便りで、筆者はガーさんがすでにアメリカに渡っていることを知った。数通の手紙を交わしたが、ガーさんの便りはしだいに暗くなっていくようだった。
後日、仕事でアメリカに行くことになった筆者はガーさんのもとを訪れる。アメリカでの生活は、ガーさんにとって快適なものではないようだった。あれほど行きたがっていたアメリカで、ガーさんにいったい何があったのか。

ガーさんとの唯一の記念。真ん中がガーさん。
* * *
秋のワシントン郊外は晴れやかな陽射しの中で、わけても道路際の木々の紅葉が美しかった。
ガーさんの弟が運転する車に、弟の妻、それにガーさんが乗り込んで、ワシントン見物を終え、家に帰るとすでに午後三時半になっていた。秋の夕暮れは、日が落ち始めるとともに体の外側からじんわりと寒気を感じさせる。
ゆったりとしたハイウェイを走っていると、東京の高速道路の渋滞の異常さが改めてまざまざと思い起こされたものだ。
ドライブの途中で、ラ・ガーディア空港近くの弟夫妻の住むアパートに立ち寄った。といっても、私とガーさんは駐車場で待ち、弟夫妻が荷物を取ってくるのを待っていた。このとき、私はガーさんの写真を撮ろうとした。すると、彼女はそうすることが当然のように、持っていた道路地図でさっと顔を隠すのだった。
「写真は嫌いなので……」
これが写真を極端にまで避ける理由だった。
そんなことで、アメリカのガーさんの写真は第一超級市場というベトナム・中国人市場の駐車場で記念撮影した一枚きりということになる。腕を組んだガーさんは、ブルーを基調に白と黒のストライプの入ったセーターを着て、自然な笑顔をしていた。
ガーさんと話をしていて、わかったことがいくつかあった。アメリカに着いて、ガーさんに電話をしたものの、なんとも理解し難い事態に遭遇したため、私はどうしても疑問にとらわれていた。それが彼女と話をする中でだんだんとほぐれてきたのだった。
ガーさんが日本にくれた手紙では、私がアメリカへ行くことを歓迎してくれていた。空港に着く時間を知らせてくれれば家族みんなで迎えに行くし、サンクス・ギビングディには自宅に泊まってほしいというものだった。ところが、私の仕事のスケジュールでは、サンクス・ギビングディにガーさんの自宅を訪問することは無理だった。そんなことを手紙で知らせると、それではと彼女の仕事の予定を教えてくれて、どのようなスケジュールになるかを知らせてほしいといってきた。だから私はニューヨークに着いたその日にホテルから電話したのだった。だが、教えられていた電話先にガーさんがいなかった経過はすでに書いた通りだ。そんなことがあったものだから、ガーさんと出会うことができてからも、「いったいどうしたんだろう」という思いはいつもつきまとっていた。
アメリカにいるガーさんからきた最後の手紙から半月も経っていない。そんな短時間のうちに、彼女の家庭の事情が変わったなどとはどうしても思えなかった。何が本当なのだろうか。そんな詮索など本当は必要ないことなのだ。だが、彼女が私にくれた優しい手紙と現実とのあまりもの落差は、現実の衝撃の方がはるかに胸に響いた。なぜ、という思いがしばしばわきあがったのはそのせいだった。
心の中にわだかまっていたそんな疑問の雲が一挙に晴れ渡ったのは、彼女の弟が住んでいるアパートに立ち寄ったことからだった。といっても、疑問が晴れたのは私の心の中の納得であって、あくまでもそう考えることでガーさんの立場を理解したつもりだった。私の考えとはこうだ。
初め、ガーさんはサンクス・ギビングディを弟夫婦や私といっしょにすごすつもりだった。ちょうど私がアメリカにやってくる日と重なるので、空港まで迎えに来て、それからサンクス・ギビングを祝おうという予定だったのだ。ところが、私の予定が変わってしまった。サンクス・ギビングディなら、ちょうど連休だったが、私の予定では平日か日曜日しか時間が合わなかった。それでも、ガーさんは土曜か日曜ならばあちこち案内できると手紙に書いてくれていた。
しかし、サンクス・ギビングを祝うのも、私を泊めてくれるのも、それは空港近くの弟夫婦の家でのことだったのではないか。私が電話をすれば、ガーさんは弟の運転する車で空港まで迎えに来てくれるはずだった……。義理の兄が電話を取り継がないほどの対応をするとは、彼女には信じられなかったことだっただろう。そこまで関係が悪化していたとは、東洋からの闖入者がやってくるまでは計れなかったのではないだろうか。
だとすれば、私の突然の訪問はいくつかの意味でガーさんに波紋を及ぼしたことになる。まず、結果的に連絡が取れなかったことで、私はガーさんが住んでいる地下室に突然押しかけ、厳しい生活の場を目の当たりにしてしまった。彼女にすれば、隠したかった部分に私が一方的に踏み込んでしまったということだ。さらにいえば、私という第三者を仲立ちにする形で、義理の兄と自分との距離がどこまで離れ、いかに冷え切ってしまっているかを隠しようもなくあからさまに認識してしまったのではないだろうか。
* * *
ガーさんの住まいに帰った私たちは、地下室の片隅にあるソファーに腰掛けてとりとめもないことを話し合った。その話をホテルに帰ってからノートにメモしようとした私は、ほとんど文字を記すこともできなかった。「辛いなぁ、こうやって書くのも」と記した思いが、その時の偽らざる感情だった。
ガーさんが話の中で強い口調になったのは仕事のことと家族のことだった。姉夫婦とは、同じ屋根の下に住んでいても顔を合わさなければ口を聞くこともないという。「あの人たちはお金ばかりの生活だから……」と。地下室から一階へ上がる階段はあるにはあるのだが、ガーさんにとっては上がらずの階段だった。食事も地下の小さな炊事場で調理する。
私は地下室にある部屋から出て家の入口に行ってみた。外から見ると、地下室には小さな窓がたった二つあるきりだった。当然のことながら、日が差したりするわけがない。そんなところにガーさんは住んでいるのだ。それでも、義理の兄から離れて暮らすほど生活のゆとりはないようだ。
彼女は法律事務所に勤めている。その労働条件が大変に厳しいとも嘆いていた。昼休みもないぐらいに忙しいので、昼食時間もパンをかじりながら書類を書くという。
「アジア人だからといって、仕事で差別されることはないの」
こう訊くと、「それはまったくない」と屈託なく答えた。
「でも」といって、一瞬黙り込んだ彼女が話しだしたことは私にはまったく意外なことだった。
「ベトナムにいるとき、共産主義の政治や社会は嫌いだった。だからといってアメリカに来るのも嫌だった。アジア人は馬鹿にされると思ったから。仕事では差別されていないけれど、友達はいない……」
ベトナムで会ったときから彼女はこんな話をしていた。将来は、だからフランスかどこかヨーロッパで暮らしたいのだと、何度も何度も聞かせてくれた。彼女の話を聞いていて、仕事が忙しすぎることや友達ができないことの理由には、面と向かってあからさまな差別はなくとも陰湿な差別があるのではないかなどと思えてならなかった。しかし、こちらからそんな話を根掘り葉掘り訊く気にはまったくなれなかった。
「やっぱりベトナムが懐かしい?」
私はそんな質問をあえてしてみたかった。こんな話の中でも「いつ最後にベトナムに行ったの?」と訊かれたので、ベトナム戦争を指導したボー・グエン・ザップにインタビューするため、つい半年ほど前にベトナムを訪れたことを話した。
「えっ、ボー・グエン・ザップ!?」
こういってガーさんは顔をしかめたが、それ以上は何もいわずに自分の話を続けた。
「やっぱりベトナムが懐かしくて……」
「ベトナムの何を?」
「仕事や友達、それに自然も」
「でも帰る気はないんでしょう」
こう訊いたとき、ガーさんはうれしそうに微笑んでいった。
「今度のテト(ベトナムの正月)にサイゴンに帰ろうと思っているの」
私は驚いた。ベトナムにいたときの彼女は、自分の国のことを共産主義体制と重ね合わせ、嫌悪の念を込めて吐き捨てるように罵倒していた。だから、ベトナムを出たら二度と戻ってくる気はないとも。それが、いまや嫌悪すべきベトナムに戻りたいという。
「二〇〇〇ドルもかかるんだけど、もうチケットも買ったし。そうそう、飛行機のスケジュールで成田に寄ってからバンコクに行くの」
「えーっ、じゃあそこで会おうか」
「詳しい予定がわかったら手紙を書くわ」
こんな会話を交わしているうちに日が暮れてきた。私はワシントンにいる知人の記者に電話をし、その晩泊めてもらうことを頼んだ。ガーさんとの別れの時間が近づいてきた。弟の運転で地下鉄まで来てくれたガーさんは、改札まで見送ってくれた。
「また会いたいね」
そういうと、彼女はうなずくだけだった。私たちは挨拶のキスを交わすと黙ってお互いの顔を見つめ合った。小柄なガーさんは、ちょっと後ずさってから、さっと体を翻して振り返りもせずに風のように走り去っていった。
* * *
東京に帰った私は仕事に追い回された。そんなある日、ガーさんから手紙がきた。彼女には帰国してすぐにお礼の手紙と写真を送り、その返事もきていた。そこに改めて手紙をくれたのだ。
封を開けると、新年の挨拶に続いて「私は怒っている」と書いてあった。「あなたは怠惰だ」とも。何かと思って読み進めるうちに、私が一ヵ月手紙を書かなかったことを怒っているのだった。そこには成田にトランジットする時間も記されていた。
だが、私たちは成田で会うことはできなかった。その日は、私が急な出張ですでにイタリアに行ってしまっているはずだったからだ。そのことを私は国際電話でガーさんに話した。資本主義国で最大のイタリア共産党が解散の大会を開くので、どうしても現場に行かなければならないと思ったのだ。その理由をここで書くことは、これまでガーさんという一ベトナム人女性との交流を紹介してきたことと無関係ではない。その理由を記す前に、ガーさんと成田で会うという約束を反故にしてまでなぜイタリア共産党最後の大会に参加したか、せざるを得なかったかを書いておきたい。
私は前年に『日本共産党への手紙』という本を松岡英夫さんと編集したことで、共産党の「赤旗」から何度も批判を受けていた。その経過の中で、政治とはいくら個人が善意の気持ちで関わろうとしても、要するに結果で判断されるのだということを改めて思い知らされていた。言葉は悪いが、そういう意味でいえば政治とは非情なものだ。
ソ連や東欧で激変が起こっているときに、よそごとではなく日本人にとって学ぶところがあるかどうかを真摯に検討することは同時代の事件に対する誠実さであろうと私には思えた。その気持ちはいまでもいささかも変わらない。それどころか、ソ連共産党の解散という二〇世紀の歴史的大事件を目の当たりにして、ますますその思いは強まっている。
「よしふ」というスターリンの名前を持った私は、この名前をつけた親の世代の、日本や歴史の進歩に対する善意をいささかも疑わない。世代を超えた薄汚れた精神の持ち主たちに比べれば、どれほど純粋で無私であることだろう。この世代の人生に対する逞しさを、私はいつも眩しい思いで見てきたと思う。だからこそ、澱んだ河の流れのような最近の事態を共有し、こんなことでいいのかという思いとともに、もはや不惑の年になろうという私にできることは何かと思った。結論は単純だった。自分の考えに誠実に、ということだ。言葉を換えていえば、計算する人生などくそくらえということでもあった。
共産党の幹部は、私に「あなたたちが出した本に対する歴史の判定はすでに下されている」と断定した。私はいった。
「そうは思わない。この本で表現したかった精神は間違ってはいない。そういう歴史の判定はそう遠くないうちに下ると思いますよ」
何人かの共産党幹部たちは、苦虫を噛み潰したような顔をして何もいわなかった。私はいまでもこのときの気持ちをいささかも変える必要は感じていない。
イタリア共産党は解散し、左翼民主党と名前を変えた。ところが、南部の地方選挙で芳しくない結果だったことをもって、左翼民主党はイタリア国民から見放されたといった皮相な論評や報道がある。歴史の実験や評価などは一〇年単位で下すものだろう。そんな哲学の貧困を含め、いまや歴史の滔々たる流れにあくまでも謙虚であることこそ現代人に必要なスタンスだと思う。
私はガーさんという魅力的な女性のことを長々と書いてきた。言葉が十分に通じないことが、大いなる誤解や幻想をお互いにもたらしたこととも思う。意思が疎通しだすとき、現実のどうしようもない重みは誤解や幻想などをいとも容易に吹き飛ばしてしまう。
だが、そんなお互いの感情というレベルをひとまず置いておいても、私には多くの時代の課題がのしかかってきた。高校時代にベトナム反戦運動に参加して以来、私にとって政治は常に身近なものだった。だから何度かベトナムを旅し、そこで知り合った人たちと交流することは、私のちっぽけな政治体験を違った視点から確認することでもあった。
結論からいえば、資本主義や社会主義という体制を考える場合でも、そこに住む生身の人間の気持ち、感情から出発しなければならないということだった。どんなに高尚な理論や理念であっても、そこに現実に生きている人間の赤い血が流れていなければいかに非人間的な結果に終わるかは、ソ連や東欧の失敗から容易にわかることだ。
正しい理論があれば正しい社会が作れるわけではない。それは、ガーさんをはじめ資本主義ベトナムに生きた庶民の中に、社会主義ベトナムに体制が転換したことで人生が根本的に変わってしまった人たちがいることでも私には理解できることだ。
今日、明日を生きる人間を救わずして、聖なる体制などナンセンスだ。ガーさんとの交流の中で私が学んだことはそういう単純なことだった。真理は単純だという。だが、体でそれを理解するまでにどれほどの時間が必要だったことだろうか。(終り)
【10年後の追記】
私がこの原稿を書いてから10年の時間が過ぎた。ガーさんとベトナム社会主義のことは、これまでにも『短い20世紀の総括』(教育史料出版会、1992年)、『私の取材ノート』(同時代社、1995年)のなかでも触れた。該当原稿のタイトルは、前者が「志は持続するか、あるいは〈ニセモノ〉の時代を排す」、後者は「ガーさんのこと」とした。
イタリア共産党最後の大会を取材して日本に戻った私は、いつだったかガーさんに手紙を出している。ところがしばらくしてその手紙は「相手が見当たりません」と戻ってきてしまった。険悪な関係だった義兄の意地悪な対応なのか、あるいはガーさんが受け取りを拒否したのか、それとも本当に転居してしまったのか、私にはもう調べる気持ちはなかった。あのイライラした手紙を受け取ってから、ガーさんとの距離を感じていたからだ。
そうはいっても、ベトナムに短期帰国したガーさんの消息は、もちろん気になってもいた。そんなときにベトナム取材の話がやってきたのだ。『マルコポーロ』誌の企画でベトナム美人などを取材するという仕事だ。ホーチミンへ向ったのは93年3月。同行したのは文藝春秋写真部の白澤正さん、編集部の金子かおりさん。白澤さんの写真に私がインタビュー原稿を書くという分担だった。ニャチャンまで海水浴に行ったことも懐かしい。ある日、私はガーさんが働いていた中国民芸店へと向った。彼女の消息がきっとわかると思ったからだ。
ホテルを出て、店に向う。角を曲がった私は唖然とするしかなかった。お店は跡形もなく、大きな建物が建設中だったからだ。しばらく佇んでいた私はつぶやいた。「仕方ないよな」。いま『地球の歩き方』のベトナム編の最新版を見ると、細かいことはわからないが「工事中」となっている。あたり一帯が大きく変貌していることだけは明らかだ。ガーさんはどこにいるのだろうか。アメリカなのか、それともベトナムだろうか、あるいはあれほど希望を語っていたヨーロッパか……。
私の机の前にはテレサ・テンの写真とともに、ガーさんが贈ってくれた仙人の石像が置いてある。いまそれを見ている私の心は、ベトナムへ、あのベトナムへとはやる。
【追記への追記】
最終回で「知人の記者」と抽象的に書いているが、ガーさんと別れてワシントンに戻った私は、元「赤旗」記者の萩原遼さんと会った。地下鉄のホームで待ち合わせをした私たちは、蟹を食べに行くことにした。ビールを飲みながら新聞紙の上で蟹の山をむしって食べたことが強く印象に残っている。黒人街にある萩原さんのアパートでは、朝鮮戦争を調査しているお話などを伺った。その成果が『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』(文藝春秋)として話題を呼んだのはしばらくたってからだった。朝起きて、近くのスーパーまで買い物に行ったとき、空気の清澄なことに驚いたこともまたいまや懐かしい。
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