『顔』という不思議

次に紹介する文章は日本精神衛生会が発行する『心と社会』98号(一九九九年)に掲載したものです。テレビの仕事に関わって、いつのまにか六年目。何度も「これでいいんだろうか」と煩悶しながらの時間だったように思います。 フジテレビに行ったとき、あるスタッフがこんなことを言っていました。

「有田さんは池袋でいつも一人で飲んでいるんですって?」
どうやら孤独で友人もいないとでも映ったのかもしれません。 池袋の沖縄料理店「おもろ」は、私が就職で上京して以来、通いだしてもう二十三年。最近はたいてい一人で訪れています。それには理由があります。いま毎日のようにテレビに出ていますが、心構えとして、絶対に失敗をしたくないからです。これは都はるみさんの「完璧主義」から学んだものでした。日本テレビの「ザ・ワイド」はコメンテーターとの打ち合わせをいっさいしていません。つまり番組がはじまり草野仁さんがどんな質問を投げかけてくるかは、すべて草野さんの頭のなかにある。そのような場で「語る」ことについて、それがうまくいっているかどうかの判断は人にまかせるとして、日々最善を尽くしてきたことだけは事実です。翌日のことを考え、深酒をせず、人間関係も選択して……。一人で飲む機会が多いのは、人といっしょだとついつい度を越してしまう「弱い」自分を知っているからです。こういった日々を過ごしているいま、自分なりの矛盾を見つめたときに「書こう」と思ったのが人間の「顔」についてでした。  何事かを「語る」仕事の意味については、この三十年間私に大きな影響を与えてくれ、二月十二日に七十二歳で亡くなった山田昭さん(ペンネームは川端治、のちに山川暁夫)を追悼してさきほど書き終えた「現代に『説教』は可能か」で触れたので、いずれ紹介したいと思います。山田さんは半世紀以上にわたって、つねに人間の解放を考えてきた人です。「五五年体制」という言葉を生み出し、ロッキード事件の解明などで一世を風靡した人でもありました。

 

「顔」

 顔とは何か。そう質問されたときどう答えるだろうか。たとえばその人を他人と区別する身体の固有の一部とでも説明すればどうか。それでは「顔」の部分がうまく表現できていない。では、とあれこれ考えを巡らしてみてもなかなかうまく説明することが困難なことに気が付いた。手や足なら機能の説明をすればいいのだろうが、顔となると難しい。そこでいくつかの国語辞典を開いてみると、こんな説明がされていた。「目・鼻・口がある、頭部の前面」(『広辞苑』第五版)。「頭部の前面。目・鼻・口などがある部分」(『大辞林』第二版)。何だ、当たり前じゃないか、しかも出版社も編者も違うのにまったく同じ説明じゃないか、と思わず悪態のひとつもつきたくなる。そんな説明ではなく、それぞれの個性があらわになり、時間とともにあるいは体験の深味によって変化する顔をどう説明するのかを知りたいのだ。 そこでユニークな解説を加えることで知られている『新明解国語辞典』(第四版)を見ることにした。この辞典の面白さはたとえ「恋愛」の説明を見ればよくわかる。「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態」『広辞苑』の「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情」という何ともつまらない説明と比べると格段の差ではないか。では「顔」はどう説明されているだろうか。期待しつつページを繰ってみるとまずこうあった。「頭のうちで、目・口・鼻・耳などの存する方の側」「耳」が加わっているが、これだけでは『広辞苑』『大辞林』と変りはない。しかし この説明に続いて「人間・サルでは毛が顕著に生えていない」とある。うーん、でもこれでは形態の説明にはなっているが、いまひとつ物足りなさを感じてしまう。そこで『新明解国語辞典』の第五版でも同じかどうかを確かめると、さらに一歩進化した説明となっていた。「頭のうちで、目・口・鼻・耳などの存する方の側。ヒト・サルでは毛が生えそろっていない。個体ごとに異なる特徴を持つが、血族・地域を単位にすれば、ある共通性の抽出が可能」しかも例文を読めば、さらにイメージがわいてくる。「四十を過ぎれば自分の顔に責任を持つべきだ」「このごろはテレビのせいかパターン化して地方の顔がなくなった、とカメラマンが嘆く」。 私は何も特定の国語辞典の宣伝をしようというのではない。誰もが持っている自分の顔の不思議についてしばしば思い至ることがあるからだ。私なら辞書の説明にこういう言葉を加えるだろう。「なお、人類の発生以来、自分で自分の顔を直接に見ることができた者ふは人もいない」 そう、誰もいないのだ。だからこそ、固有の顔は、ただたんに「目・鼻・口がある、頭部の前面」などという説明では収まりきらない深い意味を持っている。私たちは自分の顔を直接に見ることができないからこそ、鏡に映すことでその様子を知ることができる。髪が乱れていれば整え、疲れがのぞいていれば生活を振り返る。「四十を過ぎれば自分の顔に責任を持つべきだ」という言葉には、その人の人生が顔には凝縮していることを教えている。顔は人生そのものなのだ
 
 朴独裁政権時代の一九七二年、追われるようにして韓国から来日、九三年まで東京女子大学で教鞭をとった池明観ちみょんくゎん。二十年ぶりに帰国した池は、いま金大中政権のブレーンとして日本文化開放を検討する委員会の責任者についている。軍部支配から金泳三政権下の民主化された祖国へ戻った池明観は、そこに違和感を覚えることになる。ソウルの街へ戻って記した手紙が『人間的資産とは何か』(岩波書店、九四年)にまとめられているが、そこにはこんな思いが随所で表白されている。「『生きる』というのは誰にとっても決して生易しいことではありません。時には他人の人生が己の人生よりは容易なものに見えることがあるかもしれませんが、決してそんなものではないだろうと思います」「与えられた状況にあまりそぐわないということが、実は思索と批判の原点ではない
でしょうか」「思索と批判」を「生きる」ことと結びつける立場を、池明観は「三つの顔」が必要なのだという。私なりに理解すればこういうことだと思う。期待し支援し続けた民主化運動の変質、金泳三政権の退廃。池は「この町に抗って反時代的に生きることが、実はこの時代を真に生きることなのでしょう」とまで綴る。
マスメディアには限界がある。しかし、与えられたその場で「ぎりぎりの線まで書き続けること」で大衆に出会うことができると池は考える。賛成されようと反対されようと、発言することで多くの人たちと結びつくことができる。そうしてこの退廃した消費社会に生きながらこの社会を批判するという内在的な批判精神を持つことが現代人には必要なのだ。 そうはいっても現実は難物だ。批判精神を持っているつもりでも、この社会に身も心もまかせざるをえない状況に置かれることがある。そんなとき、少なくともさめた眼で自分の位置を認識し、心の痛みを感じなくてはいけない。そして自分の「本来的な働きを展開する場所を別に求めなければならない」。「生きる」ための仕事と自分が「本当にやりたい」仕事といっていいのかもしれない。だが、池明観はそれだけではダメだと考える。そうして求められたものがもう一つの顔だ。池は書く。「そのように二つの顔をして生きていくことの苦しみもまた書き綴らねばならないのではないでしょうか」「こうして今の時代においてほんとうにものを書こうとすれば、少なくとも三つの顔を造らざるをえないのではなかろうか」
 知識人として現代を生き抜くために必要な「三つの顔」。これは何も特定の職業をもつ人たちだけの話ではないだろう。矛盾を抱えた生活のなかで、そこに埋没するのではなく、自己が求める道を探ること。その懊悩のなかを生きる自分の姿を客観的に見つめること。現代を「精神の貴族」として生きるにはこうしたスタンスが条件となる。顔とは、このように人間の生き方に深く結びついた意味を持っている。
               
 あれは小学校六年生のときだった。ある日、体育館で映画観賞が行なわれた。私は大阪・茨木市の学校に通っていたが、その前に在籍した京都の学校でも、校庭に暗幕を張って時代劇を上映したことを覚えているから、当時はごく普通のことだったのだろうか。どんな映画を上映していたのか、いまではすっかり忘れてしまった。ところが、ある状況だけはいまでも鮮明に覚えている。 映画に登場していた少年の顔が私にそっくりだったからだ。しかも準主役ぐらいの役柄なのだろう。彼は画面に頻繁に、しかもアップで出てきた。鮮明に覚えているというのは、私の前に座っていた女子たちが何度も何度も振り返って私の顔を見つめた
からだ。私は恥ずかしくてたまらなかった。 この世のなかにはどこかに自分とそっくりの人が一人はいる、などと言われるが、私はいまでもその言葉を信じている。いや半ば信じているといった方が正確だろう。映画に出演していた少年がどこの誰だか私は知らない。しかし、いま街ですれ違ったとしてもお互いに気がつかないだろう。当時といまとでは確実に顔が変わっているからだ。人間の顔は環境によって変化する。うちひしがれた顔があればはつらつとした顔もある。まるで死んだ魚のように濁った眼に出会うこともまれではない。恐ろしいのはその顔が固定するすることだ。苦悩が顔に刻印されるのである。 池明観の言葉を再び借りればこういうことだろうか。「私たちはこんなに異なった過去を資産ででもあるかのようにせおっているわけです。
が、苦難の日々を共にできなかった者にはあるもろさがつきまとっているように思われます。投獄されながらも戦い抜いた人びと。そのような苦しみによってねじけるのではなく、何か超然とした人間的やさしさを手にしているように感じたとき、私は限りなく小さい者に見えてなりませんでした」 資産としての過去。どんな困難に遭遇しようともねじけることのない超然とした人間的やさしさ。私たちはどのようにすればその資質を得ることができるのだろうか。日常的にテレビに出ていると、よくこんなことを言われる。「有田さんも笑うことがあるんですね」「テレビで見るより若いんですね」「画面と同じだ」――。私という個人を目の前にして口をついて出てくる感想は、いずれもテレビが基準となっている。ものごとの判断の基準としてのテレビには多くの錯覚がはらまれている。 誰かが言っていた。小さな箱のなかで動く電機紙芝居がテレビだと。観客はその小さな画面に映った個人の姿を見て、それが等身大の個性だと思い込む。私などは失敗をしたくない、できるだけ完ぺきを期したいと思っているから、いつも緊張したままで、笑うゆとりさえない。あくまでも素人としてテレビに出ているから、何も演出するつもりもなければ、そんなことができるほど器用でもない。 ところが画面で「素敵な」笑顔を振りまいている人気女性タレントなどが、テレビ局の廊下などでつんとした態度で人に接しているのを見ると、ああ演技は商品なのだなとつくづく思ってしまう。人気女性キャスターがテレビ局前に並ぶタクシーに乗ったとき、行き先も言わないので、運転手が「どちらまでですか」と聞いたとき、怒ったように「知らないの?」と憮然とした態度をとることを聞いてももはや驚かない。人間生きていればストレスが重なってイライラすることも多い。つっけんどんにすることもあるだろう。私もそんなことがしばしばだ。しかし、そこで己の姿を「外部の眼」で見つめることができるかどうかは決定的だと思う。意地の悪い顔、ねじくれた顔、卑屈な顔、尊大な顔、自信過剰の顔、攻撃的な顔、澱んだ顔、猜疑心で固まった
顔、負け犬の顔……。私のまわりでも見かける人たちの顔を言葉で表現すれば、こんな言葉が浮かんできた。 とはいうものの他人事ではない。私の顔は人から見ればどのように見えているのだろうか。それは自分で鏡を見つめるだけではわからない顔だ。だからこそ他人という「鏡」が必要だ。他人の意見を通してはじめて見えてくる「私のいま」。生まれると同時に与えられた顔が変化していく過程には、社会的存在としての人間の一度限りの具体的人生がある。 面構えといってもいいのだろう。顔はその人の精神状況を正直に表現する。履歴書としての顔は、社会的評価の顔とは別物だ。いい顔と学歴、会社歴、出自などとはまったく無関係だ。普通に生きることの偉大さよ。テレビに映る勘違いした政治家、芸能人、ジャーナリストや弁護士などよりも、街で見かける市井の人々の方がどれほど素敵な自分の顔を持っているだろうか。顔とは何とも不思議なものなのである。

(2000年)