解放戦線の地下トンネルから地上へ(1988年クチにて)
 

  豊かなアジアと日本の貧困
    ――サミットをきっかけに考えること(その1)――


 暗やみのなかを波のように押し寄せてくるヒタヒタという足音に感動していた。
1988年9月1日。成田を発ったインド航空機は大阪・伊丹空港を経由してバンコックに。アジアホテルで一泊した私は、翌日ベトナム航空でハノイへ向かった。目的は『地球の歩き方』のベトナム編の取材。ベトナム各地を歩いては原稿を書き、写真も撮る。その最初の地が首都ハノイだ。タンロイホテルに荷物を置いた私は、夜になってからホテルを出た。ひとりで街を歩いてみたかったからだ。ロウソクの火の向こうにぼんやりと見える黒いかたまり。ヒタヒタという足音と心地よい声のさざめき。誘われるように近づくにつれ像が焦点を結びはじめた。無数の人が道沿いにたたずんでいた。この暗やみを進むヒタヒタという足音が世界最強のアメリカ軍を打ち破った秘密なのだ。そう勝手に解釈して感動したのが私の最初に抱いたベトナムの印象だった。
 当時ベトナムについてのガイドブックは、個人の手になる小型本が一冊出ているだけだった。そこで『地球の歩き方』の「フロンティア」版、つまりは「辺境」としてベトナムが選ばれた。ハノイからハイフォン、フエ、ホイアン、ホーチミン、クチ、メコンデルタなど、私は40日ほどベトナム各地を歩いた。さまざまな印象がいまでも身体に刻印されているが、ある夜こんな経験をした。たしか解放戦線の元幹部といっしょに泳いだ日のことだったと記憶しているから場所はサムソンだろう。宿舎に戻って食事をしていたとき、急に明かりが消えてしまった。電力事情がよくないベトナムでは何度も体験したことだ。部屋に戻っても暗やみでは本を読むことも、取材ノートを書くわけにもいかない。そこで私は通訳のヒェンさん、運転手のドゥンさんといっしょにしばらく外で過ごすことにした。外の方が明るいからだ。空を見上げて驚いた。「満天の星空」という言葉は知っていたが、いまこの眼で見ているものこそ、この表現の元になる姿だろうと思った。こぼれ落ちんばかりにさんざめく星空。
 3人で話をしていると、ドゥンさんが通訳のヒェンさんを通じて聞いてきた。「質問をしていいですか」と。何だろうと思った。寡黙なドゥンさんがこんなことを言いだしたのは、いっしょに行動をともにして1週間は経っていたのにはじめてのことだった。ヒェンさんが言った。
「日本ではまだ使えるテレビや冷蔵庫を捨てると聞いたのですが、なぜですか」
 私は答えに迷った。そうした現実がいいのか悪いのかという価値観を聞いているのではない。過剰な物質社会になっていて、などと言ったところで何も説明したことにはならない。いや理屈を述べることは出来てもドゥンさんが納得することはないだろう。いま当時のことを思い出しても、私はとまどいを感じながらたんなる道徳的批判を語ったはずだ。では、いま何と答えるだろうか。いや答えられるだろうか。あれから12年が経過した。だが、こうした素朴な疑問に適切な説明を加えるには相当の難問だと当時よりも痛感している。
 当時ベトナム人ひとり当たりの年間GDPは160ドル。世界最貧国の一つだった。しかし街を歩けば路上にはパパイアやマンゴウが豊富に売られ、何よりも自然は美しい。あれはハイフォン近郊の海辺ドーソンに泊まったときのこと。ホテルを出て歩いているとロシア人の女性が「ハラショー」と大きな声で叫んでいた。近づいて見ると洋服のなかがチカチカと点滅している。蛍だった。大きさがまず違う。大粒なのだ。視線を移動する。近くの小山が目に入ったときの感動はいまでも鮮明に蘇ってくる。山全体が蛍の光で輝いているではないか。
 しかし、とも思う。あのあとドイモイ(刷新)路線が加速していくに連れ、都市が整備されていったことは、89年、90年、94年とベトナムを訪れることで実感したことだ。しかし、それとともに汚職や犯罪が増加したことは報道されるとおりだ。私が気になっているのは人間にも深い影響を与えていることだ。ベトナムの友人のひとりは、ベトナム戦争中に爆撃を逃れた記憶を話してくれたとき、これからも国のために働くんだといつも語っていた。ところが94年にホーチミン市で会ったとき、ある日本企業に勤めていた彼の言葉に私は驚かされた。「国のために」という言葉が「会社のために」と変わっていたからだ。その変化の理由を聞いたとき、かれは口ごもってしまった。あれから6年。日本でもこの夏はベトナムブームだとマスコミが書いているので、おそらく多くの観光客がベトナムを訪れているのだろう。私はなぜだか落ち着かない。テレサ・テンの取材で6年ぶりに北京を歩いたことにも共通する違和感があるからだ。アジアとは何か。そこで日本という国はどんな役割があるのか。豊かなアジアに比べて日本は本当は貧困なのではないか。しかしベトナムも中国も経済発展を遂げるに連れて、大切なものを失いつつあるのではないか。
 ベトナムを40日ほど取材して日本に戻った私はやたらに腹が立っていた。何がかといえば、まず電車。アナウンスの声が騒音に聞こえただけではない。電車で座席に座っている人たちの居眠りする弛緩した顔に腹が立っていた。小さい子どもでも働いているベトナム人の表情は、物質的には豊かではないが、輝いていた。それに比べて……という怒りにも似た思いがあった。酒場にも入れなかった。あの喧騒が我慢できなかったからだ。入り口まで足を運んでひるんだことはしばしばだった。しかし、いつもの怠惰な日常に戻るまでに時間はかからなかった。それがもう12年も続いている。これでいいのか、の思いとともに。
 7月に沖縄で行われたサミット報道を見るにつけ、今世紀最後であるにも関わらず成果がなかったことは否定できない。IT憲章なども新味がないだけではなく、何よりも日本のイニシアチブなど何も発揮されなかった貧困は目を覆うほどだ。21世紀に中国が果たす役割は恐るべきものがある。ところがサミットに中国を招くことをふくめ、議論の課題にもならなかったことは、サミット無用論にもつながるはず。内容がないにも関わらず、開催費800億円だけは過去最大。バーミンガム・サミットは約11億円、ケルン・サミットは約7億円の予算。30億円のプレスセンターはサミット終了とともに解体するという。報道陣にはIC式デジタル録音機が記念品として配付された。英「タイムズ」が「宴会旅行」と酷評した根拠はあるのだ。沖縄サミットの予算があれば、ガンビアの債務は帳消しになり、貧困国の子ども1200万人が学校に行けるという。こういう数字をあげれば切りがない。世界食糧計画(WFP)の報告では、世界各地の干ばつ被害は深刻で、たとえばインドでは約4600万人、中国は約2800万人が飢餓などに苦しんでいる。先進国の最高指導者が世界について議論をするなら、こうした課題にこそ敏感でなければならないはずだ。やはりどこかおかしい。
 タゴールという人物がいた。インドの代表的詩人で1913年にはノーベル文学賞を受賞。日本を3回訪れている。そのタゴールが大正五年(一九一六年)に来日したとき東京帝大で講演した。演題は「日本へ寄せるインドのメッセージ」。その一節でこう語っている。
 
 社会と人間の精神的理想に基礎をおく文明は、シナとインドにおいてなお生きた存在であります。現代の人工的な力を基準に判断すれば、それは弱々しく小さいものに見えるかもしれませんが、それでもそれは小さい種子のようにまだ生命をもっていて、時きたって恵みの雨が天からふるならば、芽をふき成長して、ゆたかな枝をひろげ、花と実をつけるでしよう。(山室静訳)

 私はこのタゴールの講演を紹介しながら、アジアのなかの日本を考えていきたい。(この項続く)

 
 

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