方法としてのジャーナリズム
    ―山川暁夫さんが遺したもの―

 
山川暁夫さんが2月12日に亡くなってから、もう5か月が過ぎようとしている。山川さんが存命なら、朝鮮半島の歴史的な南北首脳会談や総選挙後の日本政治について、グローバルな視点で鋭い分析を加えていたことだろう。しかしいまや山川さんはいない。私はなまくら刀を精いっぱい磨きながら、山川さんが教えてくれたさまざまな方法を駆使して、一人世界に立ち向かわなければならないと痛感している。そう、ジャーナリストの精神とは、一人で世界に立ち向かう気構えにあると教えてくれたのが山川さんだった。
 80年代半ば。私はある出版社を追われ、教育関連の出版社に就職したものの、自分のやりたいこととはどうも違うという居心地の悪さを引きずっていた。現状を何とか打開したいと思った私が選ぼうとしていたのは、私立大学の労働組合書記として働くことだった。神保町の喫茶店で相談したとき、山川さんは私を評してこう語った。「あなたはこよりのように細かったけれど、このごろは大分太くなってきたなあ」。不本意な失業だった。だが、その環境に置かれたことが「こより」を「つまようじ」ぐらいには成長させた。そんな交流の折に触れ、山川さんはさまざまなことを教えてくれた。私がはじめて政治論文を書いたとき、原稿段階で意見を述べてくれた山川さんは、「現実との緊張感が感じられない」といって政治分析の方法を教えてくれた。
 山川さんがまだ川端治というペンネームで活躍していることを知ってから30年。直接にさまざまな教えを請うようになってから23年。私なりに身に付けてきたのは、山川流の新聞の読み方であり、分析の方法だった。ひと言で「情報」といっても「インフォメーション」と「インテリジェンス」が違うこと。必要な課題はさまざまな断片的事実を「インテリジェンス」=知性で総合し、分析すること。「新聞は下から上に向かって読め」というのも、ベタ記事にあるキラリと光る大切な事実を見過ごしてはいけない、ということだと私は理解している。「1日1発見」 そうすれば1年で365も発見ができるんだぞ、ということも山川さんが教えてくれたジャーナリズム精神だ。
 いま私の本棚にはテレサ・テンのサインに並んで山川さんが還暦(1987年)を記念して書いてくれた小さな色紙が飾ってある。
 「誰知明鏡裏 形影自相隣」
 この言葉は張九齢の「照鏡見白髪」(鏡に照らして白髪を見る)という詩から取ったもので、唐詩選に載っている。若いときは大きな志を抱いていたが、思うに任せぬまま、いまは白髪の年になってしまったと鏡に映るわが姿を見ながら嘆くというのがその意味だ。だが私はこの言葉を見つめていて勝手に山川さんの方法を連想してしまった。ものごとには表があれば裏もあるというように。写真家の藤原新也さんが『映し世のうしろ姿』(新潮社)で紹介したことだが、中国には「背骨(はいこう)を見る」という言葉がある。人を正面から見つめることを通じて、背骨を見るという意味だが、真意はその人物の本当の姿を見抜くということだろう。山川さんに嘆きは似合わない。「事実」の背後に「真実」を見いだし続けた方法としての「誰知明鏡裏」なのだと私は強引に解釈している。その根拠がないわけでもない。
 あれは80年代だと記憶する。山川さんは毎月一度、飯田橋で「情報料理講座」を開いていた。いつも100人を超える聴衆を前に、そのときどきの時論を方法との関連で語ってくれた。別の場で語ったものだが、いま活字として残っているものから引用する。
「ひとつの報道された事実、それはそのままでは石のように死んだものであります。この石をいくら積み上げてみても何が何だかさっぱりわかりません。それに釣針、クエスチョンをたくさんつける。この『事実』はこうではないか、こういうふうに発展するんじゃないか、こういうことを見落としているのではないかというように。すると必ず、別の事柄とのつながりがみえてまいります」
 断片的な事実をインテリジェンスを駆使して関連付けることで全体像が浮かび上がってくる。漫然と眺めているだけでは見えないことが、問題意識を持ちながら対象に立ち向かうことで明瞭に姿を現してくるのだ。このあとに山川さんが語った立場は重要だ。
「それを土台にしてたくさんの人びとが、マスコミという場に立つのではない意味でのジャーナリストになっていく、メディアを全然持たなくてもジャーナリストになっていくということが大切ではないか。お互いに伝えあい、お互いに負い目を持ちながら責任をもっていくことが、民衆サイドに広がることが必要であると思います。そこから人民のジャーナリズムというものが作り上げられていかなければなりません」(『新地平』75年8月号)
 そうなのだ。山川さんにとって、ジャーナリズムとはマスコミで生きる者だけのものであってはならないのだ。日々悩み、笑い、怒り、ときに涙しつつ生きている人たちがそれぞれの方法で世界を認識し、現実に立ち向かっていく。それを山川さんは「人民のジャーナリズム」と名付けた。
 私は山川暁夫さんのいささか遠回りをした追悼文を書いている。『寺門興隆』という仏教関係の機関誌6月号に原稿は掲載された。タイトルは「現代に『説教』は可能か」。仏教界への提言を求められた私が書いたのは、話術から見た山川さんの人生だった。

 
 二〇〇〇年二月十二日、一人の男が横浜の自宅で亡くなった。死因は心不全。朝方せき込みがひどいので、妻が病院へ行きましょうか、と聞いたが、返事は「必要ない」。そこで妻が階下に降りて家事を済ませたあとで様子を見に行くと、すでに蒲団のうえで息絶えていた。二月二十七日に七十三回目の誕生日を迎える直前のことだった。
 私がその男と最後に出会ったのは、昨年十一月十三日。この八年間、毎月一度の定期的な勉強会が行われており、彼はその講師だった。テーマは「現代アジア」。私はオウム事件に追われた九五年には一度も参加できなかったが、それ以外の年には出張など特別な用事がないかぎり、できるだけ出かけるようにしていた。この最後の出会いの短い立ち話が詩人のハイネについてだったことは、私に強い印象を刻み込んだ。彼はこう言っていた。
「最近ハイネを読み返していてね。赤線をいっぱい引いて、書き込みをしながら。いろいろ考えさせられるよ」
 私はこの言葉がずっと気になっていた。ハイネを読むことに何の疑問もわかなかったが、いったい詩集のどこに赤線を引いていたんだろうか、と。
 私が東京で働きだしたころだから、いまからもう二十年あまりも前のことになる。やはりどこかの勉強会で話を聞いたとき、私は彼から「節談説教」という言葉をはじめて教えられた。「血を吐いてまでも訴える」という「節談説教」の迫力と日々全国で講演を行うことで人の心に訴え続ける男の人生とが重なり、私の好奇心に妙に響いた言葉だった。私はすぐ本屋に行って関山和夫『説教の歴史』(岩波新書、一九七八年)を手に入れた。そこには「節談説教」についてこう説明してあった。
「ことばに節(抑揚)をつけ、洗練された美声とゼスチャーをもって演技的表出をとりながら、聴衆の感覚に訴える詩的、劇的な『情念の説教』をいう」
 もちろんこの説法は、仏教の教典や教義を説いて民衆を教化する目的を持ったものだが、私が強い関心をいだいたのは、その話芸の魅力だった。そのとき「節談説教」を聞いたことなど全くなかったが、「情念の説教」なら男の講演がそのものだったからだ。
「節談説教は、はじめシンミリ、なかオカシク、おわりトウトクなんだそうだ。これは話術にも共通する」
 そう男から聞かされていた私は、「節談説教」の方法がいつも気になるようになった。人に物事を伝えようとするとき、相手の心にしっかりと届く話術とは何か。こうもいえるだろうか。ある「正しい」訴えを行なったとしても、人を行動に駆り立てることもあれば、全く共感を呼ばないこともある。問題は感動を与えるかどうか。その違いこそ話術の水準なのだ。

 「節談説教」の歴史をいまもっともポピュラーに普及しているのは話芸の名人である小沢昭一だ。たとえば『話にさく花』(文春文庫)に収録された「話術話芸の不徹底的研究」(九二年に『月刊住職』に連載)は、「語る」ことに関して多くの豊かな示唆を与えてくれる。たとえば「舌耕」という言葉。これは江戸時代に太平記読みの人たちの仕事を指して使われたそうだ。小沢は、しかしこの「舌で耕す」仕事を現代に蘇らしたいという。舌で何を耕すのか。それは「人の心」だというのだ。
「舌耕」の関係でいえば、そもそも「節談説教」が講談や落語の源流のひとつだという。ならば現代の多様な「舌耕」の基本として「節談説教」を重視すべきではないか。小沢によれば、明治時代には全国に説教所があり、寄席とお客を取りあうほどだったという。ところが「芸風説教」(関山和夫)でもある「節談説教」は急速に衰退していく……。なぜか。近代化の意味をはき違えた者たちが、芸能まがいで低俗だと見なしたからである。ときに本山の指示で「節談お断り」のお触れが説教所に貼られることもあったという。
 小沢昭一は各地の「節談説教」を収録したレコードを一九七四年に発表した。このシリーズは、小沢が日本全国を歩きつつ、万歳、浪花節、露店の口上、見せ物小屋、街の流し、ストリップショーなどなど、大衆芸能を録音した貴重な記録だ(九九年末に完全復刻版がビクターからCDとして発売された)。
 小沢によれば、「節談説教」を保ち、伝えることができる説教僧は当時全国でわずか十人あまりしか残っていなかった。さらに四半世紀。いまや「節談説教」を演ずることができる人はなんと数人になってしまった。故亀田千巌師を手本として「板敷山」を完璧に習得した小沢もまた稀少な一人である。
 小沢が「不徹底的研究」のテキストにしたのは一九四九年に出版された徳川夢声の『話術』という一冊の本だ(秀水社刊、九六年に白揚社で復刊)。小沢はこの本の一節を引用する。
「お説教が巧ければ檀家も増し、お布施も多くなるという訳で、昔は和尚さんは話上手と定まったもののようでしたが、(中略)だんだん不信人者が大多数となり、お寺はお葬式の時か、演芸会の時か、選挙演説の時しか用のないことになりました。これは、世の中が悪くなったことも原因ですが、一つには和尚さんたちの不勉強にあると思います。世の中は、明治、大正、昭和、と移っていったのに、和尚さんたちは大抵、明治初年頃の頭で、もしくは営業方針で足ぶみをして済ましているからであります」
 徳川の厳しい分析はさらに続く。だが小沢が「不徹底的研究」の最後の最後にこの引用を行ったところに意味があると私は思う。話芸の極意を小沢流に説いたうえで、現代の仏教界に対するおくゆかしくも厳しい注文をしたのは、「節談説教」などの伝統を復活させる可能性があるなら、それはやはり仏教界が基本なのだと判断したからではないか。そして、この道もまた仏教の隆盛につながる。
 
 二月に亡くなった男の「思想の原点」は、一九四五年五月三十日にある。この日、三月十日に続く烈しい爆撃が東京の街を襲った。当時、東京高校の学生寮で暮らしていた彼は、劫火に追われ、プールの水のなかへと退避する。それでも追ってくる火の手に戸惑い、混乱する男。そのときだ。着ていたマントを後ろから引っ張る何者かの力があった。何とか逃げねばという思いがマントの紐を解かせた。男はプールから出ると、一目散に火の手の方へと突き進んだ。顔面は総やけど。しかし、劫火の向こうはすでに火の手がやんでいたため、九死に一生を得る。翌日になった。水を抜いたプールからは、男のマントをつかんだ母親と子どもが遺体で発見された。
 この出来事から二か月半後に敗戦。男がこの世を去るまでの半世紀の人生を社会運動に注ぐ出発点はここにあった。男はこの思い出を語るとき、いつも涙ぐんだ。マントを引っ張られたあの感覚はいまでも身体が覚えているのだと。
 男が亡くなって二か月が経とうとしたある日、私のもとに小さな荷物が届いた。差出人を見ると、男の妻からだ。荷を解くと、なかには五冊の文庫本が入っていた。別便で届いた手紙には故人の机の横に積んであった本だと書かれていた。そこに片山敏彦訳の『ハイネ詩集』があった。私は急いでページを開いた。
巻頭に掲げられたのは「黄昏の薄明り」という一編。このタイトルそのものが赤のボールペンでぐるりと囲ってある。
 
 
仄白い海の汀に
 独り、憂いの思いにふけり、私は座っていた。
 日は益々低く傾き、
 燃えるくれないの縞を水に投げた。
 そして白い広い波頭は
 潮に押されて
 次第に近づき、泡立ち、どよめいた。
 ふしぎな響き、囁きと笛のおと、
 笑いとつぶやき、ためいきとざわめき。
 それに交って、子守唄のように懐かしい歌声。


 男はこういう部分に赤線を引きながらハイネを読んでいた。私は思う。「人生の黄昏」を実感しつつ、志いまだ達せずにして迫ってくる最期への苛立ち。それは「かしこへ此処へ」という詩編に引いてあった赤線からもうかがえる。とくに最後の行の欄外は、赤く塗りつぶされた丸印で強調されていた。
 
 されど時の歩みは、のろき群衆のごとし。 この群衆、気がるにのろし。
 あくびしてゆるやかに往く。
 いざ急げ、のろき群衆よ!

「節談説教」の手法を学び、般若心経を好んだ男の「見果てぬ夢」は人間の解放だった。
男の名前は山田昭。ペンネームは川端治、のちに山川暁夫と名乗り、ロッキード事件の解明などで一世を風靡した。

(2000年)

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