有田芳生「私の家は山の向こう」を読んだ。十年前に亡くなった歌手テレサ・テンの伝記で、自殺とかスパイとか取りざたされた彼女の生涯をていねいに調査し、わかりやすく紹介してくれている。大変な労作なのに、重さやどろどろさがまったくなく、とても読みやすくすっきりしている。しいてしいて言うなら、それが唯一の欠点か。教え子の大学院生の論文が、「もうちょっとわかりにくくってもいい」と私が評した直後、ある俳文学者の先輩が「いい論文だけど、こくがない。発泡酒のようだ」と言ったので、「さっさすが、言葉を命とする俳諧の研究者は言うことがちがう!」と感動のあまり笑いこけてしまったが、それをちょっと思い出した。彼の論文も、非常に膨大な調査をし緻密に考察しているのに、ものすごくあっさりすっきりしているのだ。でも、有田氏にしろ彼にしろ、そういう人は、それが持ち味で、それが良さなのだろう。
本の内容だが、すぐれた才能を持った一人の歌い手が、国や政治に人間として誠実に関わろうとしながら、それが正確に伝わらず消耗していくのが読んでいて苦しい。彼女に限ったことではないが、こういう人だからこそ、誰かマスコミや政治や社会のすべてを受けてたって処理してくれるマネージャーのような人がいてくれたのだったらと思う。彼女が関わろうとした天安門事件などは私が目をそむけて生きてきたことの一つでもあるだけに、またひとつ宿題を思い出させられた気もした。
有田氏がこのようにきちんと書かなかったら、彼女の生と、特にその死については、ゴシップがそのまま定説となって定着したのだろう。正確な事実を調べて残そうとした有田氏の苦労とそれを支えた熱意は非常に大きなものだったはずだ。
私は氏がこのような本を書こうとされていると知った時、本当にちらとだけれど、「どうしてそんな題材を選んだのかな。テレサ・テンのファンなのかな」とも思った。たとえばちょっと平岡正明「山口百恵は菩薩である」なども連想した。私は山口百恵も好きで、この本も好きだし、有田氏がテレサ・テンのファンかどうかも、「私の家は山の向こう」を読んだあとでは、いい意味でどうでもよくなったのだが、それはそれとして、芸能人に対するマスコミやジャーナリズム、はてはファンまでの姿勢について、この「私の家は山の向こう」は、ある端正で完璧な模範を示してくれた気がした。
私はこの十年間ほど、ほとんどテレビを見なくなったし週刊誌も買わなくなった。昔は芸能ニュースもそれなりに楽しんで読み、ある程度嘘と思いつつも、その虚像を楽しんでいた。
いつからか、どうしてそうなったかわからないが、タレント(歌手、俳優、スポーツ選手、いっしょにしたら不敬と怒られるかもしれないが皇室の人々、更に問題があるかもしれないがさまざまな事件や事故の被害者)への取材や報道のあり方が、私の感覚では耐えられない非常識なものになって行った。公私を混同した執拗な取材、歌や映画や試合などの「作品」とは関係ない私生活へのあからさまな興味、そういうところはとめどなく大胆になって行きながら、その枠組みには、自由な発想も新鮮な感覚もない古色蒼然とした常識の枠があり、正確さや公正さをまったく配慮しない無責任さが従来のまま保存され、いや、それどころか、その固定観念と無責任さだけは、ますます拡大して行った。
その根底には、「視聴率のため、客を呼ぶため」という営利主義が公然と最優先され、「客に自分を見せる人気商売なら、私生活を隠す権利などない」という醜いとしか言いようのない芸能人蔑視の差別意識が蔓延していた。
私は、そのようなマスコミやジャーナリズムに怒るというより、そこまで「そういうものを客は喜ぶ」と面と向かって言われていて、しかも自分がファンであって大切なはずのタレントたちが、そのように苦しめられ蹂躙されていて、それに対して怒るどころか、そうやって取材された情報を喜んで受け取り、時にはその片棒までかついでしまう、受け手の人たちに失望し絶望した。
今思えば、あの時に私は発言すべきだった。どんなに滑稽でもミーハ―と言われても、そういう芸能関係のニュースの取材や報道のされ方に対して、むきになって戦うべきだった。けれど私はただいやになって、日本の芸能界のすべてに興味を失い、テレビを見なくなり、外国映画と小説とインターネットにはまっていた。
そしてある日、ふと気がつくと、テレビのワイドショーやニュースショーは、かつてタレントを取材したのとまったく同じのりと口調と姿勢とで、イラク戦争を語り北朝鮮の情勢を語り憲法問題を語っていた。
私は愚かだった。つくづくそう思う。芸能ニュースをちゃんと作れない、報道できないジャーナリズムが、政治や社会についてだけ、きちんと調査をし、情報の正確さをたしかめ、視点の公平さを心がけ、世界や日本の未来を見すえた哲学を自らの中に持ち、お仕着せの常識ではない柔軟な思考を養い、何より人間と人類すべてに対する愛情と尊敬を失わない報道が、できるわけがないではないか。
たかが、タレントの不倫や自殺の報道のしかたなどに、不愉快ではあってもいちいち目くじらたてないでも。そんなことを思って黙っていた間に、芸能人やタレントに対するあの残酷な無責任さで、戦争や貧困や世界や日本が語られる、そんな土壌が作られるのを私はそのままにしてしまっていた。
強く豊かなマスメディアとジャーナリズムは、放っておいてできるものでも育つものでもない。私たちの一人ひとりに、それを育てる義務があったのだ。
この数年間、いやもっと以前から、自分の本の出版や、その他のいろんな機会を通じて、わずかながらマスメディアの方々とも交流があった。もちろん、信念を持ってきちんと仕事をしておられる人もいる。現在のテレビの報道番組にもそういうものはある。
しかし、当然ながらこういった世界は「売上げ」「視聴率」が重要であり、それを無視した仕事はない。
私が今気になるのは、それが、自分の美学や信念にもとづいた何かを読み手や聴き手に送り出す時の考えるべきハードルとしてではなく、そもそもそれが、目的化し、一つの信仰になっているかのような様相である。
こんなことを書けばまた敵を増やすのはよくわかっているが、私はインターネットのささやかな世界でさえ、たとえば掲示板への書き込み数、サイトへのアクセス数に一喜一憂することがあまりに当然の前提になっていることに、いささかいつも当惑する。それはたしかに、反応や反響をうかがい知る貴重な資料ではあるが、増やすことが最終目的になったら危険だと常に感じている。
もう一つ、マスメディアやジャーナリズムに絶対に欠かすことのできないのは、権力に屈しない批判精神であろう。大きな影響力を持つ存在であるだけに、特定の人間や組織に利用されない気概と知識と良心を持つことは、いわば職業的な義務である。そして私は、この点が現在のマスメディアに対して一番不安でたまらない。私でさえが見捨ててしまった、抵抗できない弱い立場の芸能人やタレントを容赦なく取材しつづけていた姿が、どうしても今のマスメディアすべての原風景として、重なってきてしまうからかもしれない。
話は戻るが、そのような点では、オウム真理教という強大で危険な組織と対決することをいとわなかった有田氏によって、一人のすぐれた歌手の生涯を礼儀正しく正確に描き出した本が書かれたのは、大変当然であるとともに、必要なことであったのかもしれない。