7月8日から12日まで北京に出かける。中国は92年、94年以来の訪問。前回の目的は統一教会。今回はテレサ・テン。なぜテレサなのか。私が彼女を取材しはじめたのは92年。もう8年の時が経過した。当時の私は都はるみさんを取材し、のちに『歌屋 都はるみ』(94年講談社刊、97年文春文庫)としてまとまる原稿を書いていた。そのとき女性を書く視点を教えてくれたのが講談社の名物編集者だった岩本敬子さんだ。黒柳徹子さんのベストセラー『窓際のトットちゃん』を担当した岩本さんとは、私が就職で77年に東京に出てきてからのお付き合いだった。編集者の大先輩。ある日、講談社近くにあるちゃんこ料理屋でご馳走になったとき、岩本さんはこう言った。
「都はるみを書き終えたら次に何を書くかを考えておきなさいよ」
書き下ろしの単行本を書き終えると虚脱感に襲われる人が多いから、そうならないように、というアドバイスだった。私は言った。宮本顕治をどうしても書くつもりだと。私の人生を変えたと思い込んでいた共産党の最高幹部の人生の役割と限界を、ノンフィクションの手法でどうしても書きたいと思っていたからだ。実際に宮本の秘書など関係者に話を聞く作業も進めていた。しかし、あるきっかけでふっと気が抜けた瞬間があった。違うぞ、と思った。私はもっと大きな枠組みに取り組みたいと考えるようになっていた。そうだアジアを書こう。そう決めたとき心の奥深くからすーっと自然に浮かんできたのがテレサ・テンという女性だった。
日本では「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」「別れの予感」などで知られる歌手。だが私の強い印象は89年に起こった天安門事件に反対した勇姿だった。「演歌歌手」と天安門事件。いったいテレサ・テンの心のなかにはどんな思いが渦巻き、その人生はどのような経過をたどってきたのか。さっそくテレサに取材を申し入れた。すでにパリで生活を送っていた彼女が日本に来る機会は少なかった。トーラスレコードの担当者などの協力で話を聞くことが出来たのが92年7月22日。フジテレビで話を聞いた。ピースサインをして微笑んだテレサが握手をしてきたはじめての出会い。さまざまな質問に笑顔で答えていたのに、天安門事件の話を聞くと涙声になったテレサ。私の取材はそこからはじまった。そして94年10月24日仙台。最後の来日になるとは予想だにしなかった別れの一瞬。天安門事件に反対したテレサを書きたいと伝えた私に彼女は小さい声でこう言った。
「光栄です」
その直後に彼女の口から出た言葉に私は心底驚いた。
「私のこれからの人生のテーマは中国と闘うことです……」
やはりそうか。テレサが激しい言葉を口にした意味を私は納得した。それは彼女が亡くなってから喧しく流されたスパイ説にも関わっている。さまざまな憶測。私はこの8年間の取材でテレサに関するさまざまな疑惑にすべて具体的に答える準備が出来ている。その最終的な確認のため、これから北京を歩く。