アジア現代史とテレサ・テン

 その男が東京・杉並区本天沼で暮らしていたのは一九八七年夏から一年間ほどの期間だった。荻窪駅から教会通りを突き当たり、しばらく行くと「瀟洒」という言葉がぴったり当てはまる上品な住宅街が広がる。三丁目を歩く。その一画に周囲の環境と時代から遥かに取り残された風情のアパートがぽつねんと建っていた。黄色い壁には亀裂が入り、建物全体が薄汚れている。ここに住んでいた男の名前は関鍵。『北京青年報』の記者で、八七年一月二十三日に私費留学で来日している。やがて北京から妻と娘を呼び寄せた関鍵は、このアパートでは狭すぎたので調布市若葉町に転居する。彼は自宅のファクスから香港の雑誌にペンネームで多くの記事を送っていた。それから三年。北京に「家族訪問」のために戻った関鍵は、北京市国家安全局によって西長安街のホテルで逮捕される。捜査令状を読み上げられたとき、関鍵の身体は震えていた。

 一九八五年一月三十日の午前十二時十二分。シンガポールの自宅にいたテレサ・テンは誕生日をひとりで過ごし、そろそろ眠ろうとしていた。そこに静寂を破る電話のベルが鳴った。受話器を取ったテレサに聞えてきたのは名前を確認する電話交換手の声だった。申し込んだ相手が関鍵だった。「ト麗君さんですか」。「どうしてわたしの電話番号がわかったのですか」いぶかるテレサに、関鍵は「一年間探していたんです」と答えた。それから五十三分間の会話が行われ、そのエッセンスが二月一日の『中国青年報』に署名記事として掲載される。大陸の新聞記者が台湾の国際歌手にインタビューしたことは大きな波紋を呼んだ。台湾の新聞はこの記事を誤報だと報じ、中国側はテレサが大陸でコンサートを開きたいと願っていると国際配信した。日本では「愛人」「つぐない」「時の流れに身をまかせ」などのヒット曲で「演歌歌手」と見られていたテレサ・テンは、政治の激流に巻き込まれていく。

 中国政府の要人に賈春旺、王兆国という人物がいる。二〇〇三年三月に開かれた全人代で賈は最高人民検察院長に就任、王も常務副委員長に選ばれ、翌年には「憲法改正草案」を報告した。関鍵記者がスクープしたテレサ・テンへのインタビューをきっかけに、中国共産党では、彼女を大陸に招聘してコンサートを開く計画が秘密裏に動き出す。その中心にいたのが、賈春旺と王兆国であった。その打ち合わせのため、テレサを極秘に中国に入国させるプランが持ち上がり、香港在住のある人物を通じて打診が行われる。テレサもまた父母の祖国である大陸で歌う気持ちが固まっていた。天安門で行われる百万人コンサートである。香港でテレサと母親の趙素桂に接触をしてきたのは、新華社香港分社副社長の妻だった。間に立ったのが台湾出身のある有名な元女優である。ところがテレサの気持ちを無惨にも打ち砕く出来事が起きる。一九八九年六月四日の天安門事件である。

 その八日前の五月二十七日、香港のハッピーヴァレー競馬場で天安門の学生を支援する十二時間のチャリティーコンサートが開かれた。テレサは集会で歌うことを請われたものの出演を断っていた。ところがテレビの中継を見ているうちに気持ちが動き、会場にノーメイクで駆けつける。その胸には自分で色紙に書いた「反対軍管」「我愛民主」というスローガンが掲げられていた。テレサは「私の家は山の向こう」を歌った。なぜこの曲だったのか。そこには中国と台湾の現代史にまつわる深い意味が込められていた。中国政府を公然と批判したテレサは、香港で暮らすことに不安を感じ、フランスへと向かう。ライフワークである自作の詞を書きながらも自由な生活がはじまった。十四歳年下のステファン・ピュエールとの恋を楽しみながらも、中国から亡命した活動家との交流も怠らなかった。天安門事件に抗議するコンサートが計画されるが、ある理由から頓挫、深い哀しみを抱えたテレサはタイのチェンマイに向かった。バザールで遊び、ときには国民党の残党が暮らす村にでかけたテレサは、九五年五月八日、突然の死を迎える。四十二歳。その死因は……。

 取材開始から完成までに十三年の時間が必要だったのは、歌手テレサ・テンの音楽生活を中心にした伝記的読み物に収まり切らなかったからだ。「スパイ説」「謀殺説」などこれまで報じられてきた疑問に答えただけではなく、アジア現代史の秘話を発掘できたとの思いもある。テレサが亡くなって十年の年に、彼女が公開の場ではたった一度しか歌わなかった「私の家は山の向こう」を 特別付録のCDとして普及できることも何よりの喜びである。テレサのこころがそこに表現されているからだ。中国共産党中央宣伝部ルートから、やんわりと「もうおやめなさい」と忠告を受けたことも付記しておきたい。

                     (『本の話』2005年3月号)

All copyright 2000-2005 Yoshifu Arita. All Rights Reserved. E-mail: arita@gol.com