記憶装置のなかには整理箱がある。網膜に焼き付いた情景を収納しておく空間だ。ある言葉をそこに放り込めば、切り取られた何枚ものシーンが滲み出て、だんだんと鮮明な像を結んでくる。たとえば「ベトナム」という言葉を選んでみる。すると私の記憶箱のなかでもいちばん厚みのある棚から溢れんばかりの想い出が姿を現わしてくる。そして記憶が語りだす……。
一九八八年。一日に二百冊ほどの新刊が発売されている日本の出版界にあって、ベトナムのガイドブックはただ一冊しかなかった。『ベトナムを歩く』というB6版、百六十一ページの小冊子。しかも個人の著作だから、紹介された土地も内容も当然のことながら限られていた。そこに眼を付けたのが、若者たちに「旅のバイブル」と呼ばれていた「地球の歩き方」だった。「知らない国」「不思議な国」を扱うシリーズの一冊としてベトナムを扱うことになったのである。いまでは意外に映るだろうが、編集部では当時のベトナムを「フロンティア」(辺境)と位置づけた。
その取材でベトナム全土を歩いたとき、私は多くの経験をした。通訳のヒエンさんとドライバーのドゥンさんとともにハノイ周辺の、ある村に到着した夜のことだった。食事の最中にいきなり電気が消えてしまった。首都ハノイのホテルでも停電はしばしば。もはや驚きもしなかった。
食べることを中断した私たちは、外に出ると近くにある石の階段に腰かけた。天空にはこぼれ落ちるような燦々とした星の輝きがあった。さまざまな会話のさんざめき。ヒエンさんの表情がふと改まった。「聞きたいことがあるんですけど」。ドゥンさんの顔をちらりと見てベトナム語で何やら語ると、彼も小さくうなずいた。ヒエンさんは、いつものように「アリタ」の「リ」に発音の力点を置きながらこう語った。
「アリタさん、ニッポンではまだ使えるテレビを捨てると聞いたのですが、それは本当のことですか」
そうだ、とは答えたものの、その理由をうまく伝えることはできなかった。彼らの生活にはテレビも冷蔵庫もない。洗濯も手洗いで行われていた。ところが日本の消費文化では、使用可能なものでも廃棄するという。ヒエンさんたちはそんな噂話を聞いてはいても、日本人の私に聞くまで半信半疑だったのだ。いや、私が咄嗟に思いついた説明を聞いたところで、とうてい納得はできなかっただろう。
日本でテレビ放映がはじまったのは一九五三年。テレビ受像機はわずか千台しかなかった。十七型のテレビは三十万円。大学を卒業した銀行員の初任給が六千円の時代だ。それから半世紀。いまやこの国は一世帯平均で三台近いテレビを持つほどになってしまった。世界最大の保有率だ。
しかし、テレビのここまでの大量普及と引き換えに「失った」ものがある。たとえば言葉に異変が起きた。人間が生まれてから一年半ほどで獲得する言語は一般的には四十程度だ。そこにテレビから得た言葉が侵入しはじめた。この世に生を受けてはじめて発した言葉が「チリソース」や「チケット発売中」だったというケースがある。「初語異変」だ。
何よりも想像力が奪われていった。テレビのない時代、子どもたちは活字を通じて、あるいは自然のなかで遊ぶことで「それぞれ」の想像力を働かせていた。ラジオの時代でもそうだった。ところがテレビ映像は一様なシーンを私たちに提供する。全国のどこへ行っても、子どもたちの演じるウルトラマンや仮面ライダーの変身シーンが同じであるように。認識のパターン化だ。
それだけではない。テレビ草創期には、街角に置かれた街頭テレビには何千人もの群衆の姿があった。家庭に普及がはじまった一九六〇年代でも、テレビは生活のなかのごく一部を占めるにすぎない。路地裏の「隠れん坊」や缶蹴り遊びなどなど、まだまだ濃厚な人間関係が存在したのである。
テレビは一例だ。物質的爛熟への欲求が満たされることと反比例するように人間関係は希薄化し、多くの人たちが「孤立化」してきた。そこに現代日本の問題がある。
ベトナムは、一人あたりのGDP(国民総生産)が百六十ドルという世界最貧国の環境にあった。しかし、モノは無くとも、大人も子供も眼が輝いていたのはなぜだろうか。官僚支配の強化や旧体制を支えた人たちへの差別という宿痾のような問題もすでに存在していたが、市井に生きる庶民の胸の裡には生活の再生をめざす夢と逞しさがあった。
ベトナムだけではない。この日本にも終戦直後の混沌や欠乏のなかには未来へと開かれた明るさが確かに存在した。その果てにいまの衰退する物質社会があるならば、どこに岐路があったのか。「わたしの幸福」を「ニッポンの幸福」へと結ぶ構想力を百花繚乱に咲かせたい。それが私の「見果てぬ夢」である。