「日本語」がブームだ。確かに、声に出して読むなど身体論として面白い部分もある。だが、人と人を結び付ける道具としての「言葉」は深まっているだろうか。言葉は、人格と結びつかなければ説得力を持たない。
高校卒業後、京都府知事選を手伝った。演説会場で初めて聞いた故蜷川虎三知事の話は、今でも忘れられない。決まり文句は一切なく、すべてが生活の中で身につけた言葉だった。聴衆のお年寄りたちは立ち上がり、熱狂した。
今、こうした言葉を発せられる人がどれだけいるだろうか。選挙で政治家が語るのは、何かを暗記しただけの干からびた言葉が多い。自分の言葉になっていない。日本語ブームといわれる半面、言葉に進歩も深まりもないのが現状だ。
とはいえ、日本語の世界は豊かだし、日本人が活字に触れる機会が減ったわけでもない。考えられるのは、言葉と格闘する力の不足だ。世の中の現象をどう認識し、表現するか。それをじっくり考えれば、自分なりのスタイルが出てくる。
そういう認識の「装置」が、今の政党や政治家はさびついているのではないか。ある現象を言葉で鋭く切り取った時、初めて人々は動く。小泉純一郎首相の就任時は、まさにそうだった。
ただ、その後は同じ言葉の繰り返しになり、新鮮味はなくなった。スローガンは、常に時代に合わせてつくり直さなくてはならない。
言葉への感性が怪しくなっているのは、政治家だけではない。若者たちが電車内で脇目もふらずにやり続けている携帯メール。とても感覚的で、熟慮した言葉のやりとりではない。こんな光景は、つい十年前には見られなかった。人間の認識力に、大きな変化を及ぼしてはいないだろうか。
漢語文体の時代だった明治から昭和初期生まれは人間の粒が大きく、人々の認識力も十分機能していたと思う。今は、そうした文化の継承が明らかに衰退している。それなのに、こういう重要な問題が、政治の場で議論になることはほとんどない。
(「東京から語るふるさとへ」。「京都新聞」2003年11月24日)
注・記者の質問に答えて1時間ほど話した内容をまとめてくださったもの。テレサ・テンの次には「コメント力を鍛える」の続編として「認識力と言葉」を書く予定だ。