視聴率とは国民意識の変化を分析するうえでとても大切な指標のひとつである。皮肉でも逆説でもない。わたしが日本テレビ系の「ザ・ワイド」に出演するようになってから九年近く。放送開始直前にスタジオの控室でプロデューサーからいつも見せてもらうようにしているのが、前日の番組の視聴率とグラフである。そこには視聴者の関心が分単位で明らかとされている。
たとえば九五年のオウム事件以降の時間的経過のなかで俯瞰してわかることは、視聴者の感性の変化である。犯罪事情の悪化は「平凡な殺人」の連続に嫌悪を感じるのか、あるいは慣れっこになってしまったのか。いまでは視聴者の関心を引かなくなってしまっている。そのエポックとなったのが、ライフスペースによる「ミイラ事件」であったと記憶する。ミイラ化した死者を生きていると主張した猟奇的な出来事は、社会の耳目を集めたが、視聴率レベルでいえば、強い関心を持たれたのはわずか数日だった。あれは一九九九年十一月のことである。
刑法犯が年間三百万件になろうとしている現在、ひったくりなどを指標とする体感治安の悪化は、通り魔や外国人犯罪の増加によって質的変化を遂げている。そうした事態にあって、テレビが取り上げる個々の事件が視聴者にいかに受け止められているのか。その指標となるのが視聴率なのである。放送内容のあり方や切り口の工夫、さらには対処策の提示など、視聴者の意識を前提に現場が拠って立つ根拠が視聴率の推移から見えてくる。もちろん犯罪だけではない。社会風俗や大衆芸能まで、視聴率という「窓」からは、現代を現代たらしめている多層で複雑な「風貌」が見えてくるのである。
わたしが視聴率を評価するのはそうした意味からである。だからこそ視聴率を「銭の論理」で買収することは、メディアとしてのテレビの規定的意味を自ら放棄する自殺行為である。その根底に個人と組織の自己増殖する保身と栄達幻想があるならば、そこに鋭いメスを入れ、文字通り公器としてのテレビの質的向上を果たさなければならない。ことは日本テレビだけの問題ではないのである。