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『伽椰子のために』と現代の不安
ここに紹介するのは、1984年に『シネフロント』(11月号)に発表した映画評論だ。当時の私は小さな教育系出版社に在籍しながら、生活の現状に不満を抱いていた。その思いをこうした文章を書くことで「しのいで」いたのだと思う。『シネフロント』にはしばしば映画評という形を取りながらの時評を書かせていただいた。いまから17年も前の原稿ゆえに、多くの欠陥も気にかかるけれど、32歳のときの水準として、あえて原文のまま掲載することにした。(20001年3月11日記)
日本人は、ということは、当然、私もふくめて民族問題、もっと端的にいって在日外国人の八割以上を占める在日朝鮮人が抱えている諸問題を、どれほどまで自分たちの課題としてとらえているのだろうか。朝鮮問題は、最近のニュースからひろってみるだけでも、たとえば、十六歳以上の在日外国人に義務づけられている右手ひとさし指の「指紋押捺拒否」問題、南北朝鮮の統一をめぐっての米ソ中をふくんだ三者あるいは四者会談提案など、日常生活レベルから国際政治にいたるまで、歴史の重みを背景にきわめて深い。
しかし、いまや戦争を知らない世代が日本国民の過半数を占めるようになったこともふくめて、個々の日本人が、朝鮮問題を身近な問題として理解するには、さまざまの困難な状況がわれわれの前には横たわっている。それは、一九一〇年の「日韓併合」による朝鮮植民地化によって、日本に強制連行された朝鮮人が、敗戦時二百万から二百五十万を数えるにいたったのに、いまでは二世、三世をふくめ、七十万人に減少したこともあるだろう。さきに日本世論調査会がおこなった「朝鮮半島に関する世論調査」で「日本にいる人を含めて、あなたは韓国・朝鮮の人に友人や知り合いがいますか」という問いに、八〇パーセントの人が「いない」と回答している。このように、いまでは、日常生活レベルでの在日朝鮮人とのつきあいは、多くの人にとって密なものとは決していえない。(「東京新聞」、八四年十月十日付)。
だが、いうまでもなく、朝鮮問題をめぐる課題は単なる量ではなく質にこそある。歴史的にみても、日本の運命と朝鮮半島の動向とは不可分に結びついてきた。たとえば、明治の官閥政治体制は、朝鮮経営をめぐる内戦(西南の役)の結果確立し、日清・日露戦争は、いずれも朝鮮支配をめぐる戦争であり、それに勝利することでわが国は帝国主義国家となる基礎を築いた。戦後も朝鮮戦争を契機に警察予備隊が創設され、日米安保体制が確立、朝鮮特需の儲け、いいかえると再び朝鮮人の血の支払いに寄生しながら、わが国は"戦後復興"をなしとげ、いわゆる「五五年体制」という戦後秩序を確立したのである。文化の共有制は、いうまでもない。日本と朝鮮とのかかわりには、これだけの歴史的な重みがある。
たしかに、個々の日本人にとっては、朝鮮人と普段のつきあいが直接にはない人が多いかも知れない。しかし、松坂慶子、山口百恵、和田アキ子、西城秀樹と思いつくままに名をあげた、これらの在日朝鮮人(帰化)スターたちとわれわれ日本人とは、かかわりがないなどとはたして言えるだろうか。(『月刊現代』八四年十月号参照)。私たちは、湯船につかり彼らの歌をくちずさんだり、ホロ酔いかげんのカラオケで、彼らの歌を競ったりしてはいないのか。そうした意味でも、在日朝鮮人たちと日本人とのかかわりは、決して遠くの、つかみきれない雲のかなたにあるものではない。
この、私たちの「身近」な存在として象徴される彼らとて、民族的差別の横行するこの日本で、平坦な人生を歩んできたわけではあるまい。
一九五九年に帰化し、現在、野球評論家の金田正一が、張本勲に「ハリよ、わしゃあ日本に帰化する。この先、コーチになったり、監督になったりするのに、韓国籍では何かと障害があるからなあ」と語り、その張本も、「その頃(十四、五の頃)ぼくにはほかの在日朝鮮人の子と同じに夢なんかなかった。ダンプの運転手になるか、極道になるしかなかった」と語ったとき、彼ら在日朝鮮人全体にたいする民族的偏見・差別は、すべての日本人の問題としてのしかかってはこないのか(梁泰昊『プサン港に帰れない』、第三書館)。
この日本人による在日朝鮮人への民族的差別と偏見とて、実はいまなお、私たちの生活からかけ離れたものではない。一例だけをあげよう。一九八二年に、東京で中学校の英語教師になった朴元綱という人がいる。彼が教室へ行くと、生徒全員がうしろむきに座るという、ひどい対し方をしてくるという。こういったたぐいの差別は、在日朝鮮人ならば、多かれ少なかれ、いまでも味あわされているのだ。
全斗煥大統領の来日で強調された「日韓新時代」という言葉もうつろに、七十万人の在日朝鮮人がいまなお抱える問題の内実は、金田や張本が証言した苦悩や哀しみを、形や程度はさまざまであるにせよ、引き続き、しかも確実に再生産している。
小栗康平監督が、三年前の処女作『泥の河』からシナリオ完成までに二年の歳月をかけ、このたび公開されるはこびとなった『伽椰子のために』(原作・李恢成)は、この在日朝鮮人問題を題材としながら、ひとりの在日青年と戦後の混乱期に捨てられ、朝鮮人と日本人の養父母に育てられている少女の出会いと愛、そして別れとを描いた物語である。
小栗監督は、この作品の製作意図について次のように語っている。
「一方的な戦争によって近代化を果たしてきた日本人は、一度たりとも己れの民族性を相対化出来なかった。日本人は、いま、その大きな不幸を背負って、上すべりしている。在日朝鮮人二世の青年と日本人少女の愛の劇に、その傷口が少しでも見えてくれれば、幸いである」(プレス・シート)。
それでは、小栗監督がこう語る作品『伽椰子のために』は、その意図をどこまで実現しえただろうか。
この作品を見た何人かの人々の評価は、当然のことながら、その視点によってさまざまである。たとえば、作家の森敦氏は、「『伽椰子のために』に心から感動した。小栗さんは、『泥の河』の成功以来、もっとも期待された監督になったが、格段に幅が広くなり、迫真の力を持ってきた」と評価した。また、映画監督の山田洋次氏も、「李恢成の原作を読んだ小栗さんの心に浮かぶ心象風景が、そのままスクリーンに結晶したのでしょう。三年間の歳月をかけた作者の深い思いが、不思議な透明感となって伝わってくるのです」とのべている。評論家の佐藤忠男氏も、青春を描いた側面から、「この映画は、幾つかのラブ・シーンの見事なできばえによって、古典となるであろう。実に清潔な情感のあふれる美しい恋愛映画である」と絶賛した(『友』一七七号、岩波ホール発行)。
ところで、こうした肯定的評価の一方、「在日朝鮮人問題を描いたこの映画が理解されるには、日本人にとって説明不足でむずかしすぎる」という声もいくつか聞かれる。
私たちはこれらの見解を、どう考えたらいいのか。
私は、この映画を評価するにあたって、現在の日本映画の現状、たとえば、大手の映画会社にはまともに青春を題材としてとりあげた映画がほとんどないこと、朝鮮人を主人公にした映画は興行的にヒットしないという理由で皆無に等しいなかで、これらの問題に正面から取りくんだ小栗監督の志に、まず無条件に賛意を表するところから出発したい。
映画『伽椰子のために』は、在日朝鮮人青年、林相俊と数奇な運命をたどった日本人少女、松本伽椰子の愛のからまりを軸として、祖国、民族、青春という大状況を描いたものである。言いかえるならば、民族問題、国家の問題が、個性をもち、それぞれにちがった顔をもった個人に刻印され、投げかけられたとき、その人生はいかなる運命をたどるのかをテーマとしたのが、この映画だ、ともいえよう。
私は、この『伽椰子のために』解くキー・ワードは、現代社会の抱える不安であると考える。私はさきに、小栗監督の製作意図を紹介したが、彼は次のようにも語っている。
「私は日本で生活している在日朝鮮・韓国人の政治的、社会的状況を特に描こうと思ったわけではないのです。私が生きているなんともいえぬ不安な気持ちが、こういった素材を要求し、たまたま李恢成さんが日本語で書かれた小説に出会ったということです。」(『週刊朝日』、八四年九月二十一日号、太字は引用者)
この作品分析のキー・ワードが「不安」であることを検討するため私はまず、この作品の背景ともいえる在日朝鮮人にかかわるシーンが、どのように描かれているかを簡単にふり返ってみたい。映画全体の舞台をざっとみても、サハリンに移住した朝鮮人老婆の身勢打鈴(身の上話に節をつけて語ること。その嘆きのセリフでは、日本が「盗っ人の国」とうたわれている)あり、在日朝鮮人集落あり、そこでの砧を打つ音あり、オモニたちの野遊びと「ケジナ・チンチナーネ」(慶尚道の代表的な歌)ありと、随所に「朝鮮の臭い」がちりばめられている。
この映画をみた在日朝鮮人一世は身勢打鈴の嘆きのシーンは、いまの二世、三世もおそらく聞いたことがないだろうし、砧を打つシーンも小さいころからの生活を思い出させて大変なつかしかった、という感想をのべていた。
そして、もちろんのこと、その深層にある在日朝鮮人たちをめぐる悲劇が、主人公たちのナマの声とそれぞれのかかわりを通じて表現されている。そのいくつかを、ここでひろってみる。
たとえば、夜の公園を散歩する相俊と伽椰子。相俊は、日帝時代、朝鮮が日本の植民地だったとき、別れ別れになっていく悲しみを花に託して歌った抵抗のうたを歌い、伽椰子にその意味を説明する。また、たとえば、朝鮮人集落での相俊と崔明姫との会話。明姫は、一九四八年に李承晩の不正選挙に反対して蜂起した済州島の人々が、人口三十万人のうち八万人も虐殺されたことを自分の家族とのかかわりで語っている。(余談だが、この済州島の蜂起を体験し、『鴉の死』(講談社文庫)という短編力作で表現した金石範氏は最近完成した大作『火山島』で第十一回大佛次郎賞を受賞した。当時の状況を知る大変貴重な作品である)。そして、家出をした伽椰子は、彼女を探しにきた相俊にむかって「いやあ!日本も、朝鮮も、いやあ!」と叫ぶ。この叫びの持つ意味は、伽椰子の生いたちを考えるだけで、重いものがある。相俊が在日朝鮮人であることによって、半チョッパリ(=半・日本人)であるならば、伽椰子も、日本人に生まれながら、朝鮮人に育てられたことによって、半チョッパリとも言えるのである。
二人で生活する相俊と伽椰子をみつけた伽椰子の養父・クナボジと養母・トシも加わった、ラスト近くの緊迫したシーンは、この映画のなかでもきわめて重要だ。そこでは、在日朝鮮人に重くのしかかっている日本人との結婚問題、帰国問題という大問題がナマ身の個人の苦悩をつうじて表現されている。相俊のそばを離れたくないという伽椰子の頬をはったトシにむかって、伽椰子は、次のように言う。
「あたし、大人達の出来なかったこと、やってみせるんだから!かあさん、いつかいったっしよ、われっみれって、なんていったの!十年以上もとうさんと暮らしていて、朝鮮人と一緒になって損した、一生うだつの上らねことになったって、あたしにいったっしょ!」
続いて伽椰子のはなったセリフは、彼女の朝鮮問題への認識がどこまで深まったかを示すものだが、それは、三人を驚かせる。
「いつか一緒に、朝鮮さ行くんだから」
トシは泣き出し、しぼりだすように、
「いかねえ、いかねえ、おらいかねえ……」と言い、クナボジも、自分の人生は終わったこと、もう朝鮮に帰ってもどうしょうもないと、嘆く。ここは、三人の置かれた位置と心情を見事なまでに、その表情にあらわした印象的なシーンだ。
この二つの問題は、単なる歴史の話にとどまらない。在日朝鮮人七十万人のうち二世以降の世代は、一九五八年には六四パーセント、六四年には六八パーセント、七四年には七五パーセント、八〇年代に入ると、八〇パーセントを越えるまでにいたった。当然、彼らが生活する日本の変化−高度成長から低成長への構造的変化−にともなって、価値観も変わっていく。五九年十二月に帰国第一船が新潟港を出発してから、六〇年には約四万九千人、六一年に約二万三千人が帰国したあと、六二年には約三千五百人とその数は激減する。さらに、朴政権以来、「在日僑胞は日本人に同化する運命」(李東元韓国外務部長の六五年の発言)と、在日朝鮮人棄民化が公言され、朝鮮民主主義人民共和国の側も「帰国」を強調しなくなったことなども加わり、在日朝鮮人の心には、いっそう複雑な思いが沈澱している。
結婚問題でいうなら、七五年を境に、在日朝鮮人どうしの結婚よりも、一方の配偶者が日本人となるケースが上まわるという状況が生まれている。
このように、『伽椰子のために』の主人公たちが一九五〇年代に激しく相対した国家・民族問題は、日本で生まれた在日朝鮮人が、総数の八割以上を占める状況のもとで、現在、さらに複雑な要素をからめて重く存在している。
もうひとつの柱、伽椰子と相俊との恋愛と同棲、愛の破錠は、これまでみてきたような民族問題を深く刻印しながらも、美しく哀しく描かれる。いくつかのシーンを振り返ってみよう。
まずは、二人の出会い。クナボジを訪ねる相俊は、子どもたちにいたずらされていた少女=伽椰子に、家をたずねる。伽椰子は、無言でその方向を指さす。のちにクナボジの家で相俊に紹介された伽椰子は、はずかしげに横を向いたまま部屋に入ってきて、しかも、両親の間に座ったときなど、二人の膝にそっと手をやる。のちの伽椰子の強さと対比して考えるとき、この清楚さは、あとあと浮き彫りになってくる印象的な場面のひとつだ。
再び東京から訪ねてきた相俊と伽椰子とのやりとりも、男女の微妙な心理が美しく映像化されている。春の北海道の夜、ポプラ並木のなかを相俊が歩いている。むこうからリヤカーを引いてやってくるクナボジに、相俊は大声で声をかける。二人して歩きながら会話が続くが、相俊がたずねる。「みんなはどうしたのですか」。相俊は、当然のこと伽椰子が気になっている。クナボジは、「うん、あとからついてきている」と答える。そのうち、うしろの方から、かすかに伽椰子たちの話し声が聞こえてくる。そこで相俊は言う。「クナボジ、先に荷を引いていってます。ゆっくり歩いてきて下さい」と。どんどん先をゆく相俊を、伽椰子は急いで追ってくる。「お兄さん」という伽椰子に、相俊は「やあ」と照れくさそうに答える。「疲れるのに。待っててくれたらよかったっしょ」と言う伽椰子に、相俊は無言である。この段階では、まだ伽椰子に会いたかった、などとは言えない二人の関係なのである。伽椰子がいることがわかって、クナボジから離れて、先にリヤカーを引いていく心境など、ケースはそれぞれでも現実生活のなかでよくある、つまり、みずからの経験に照らして、よくその心理が理解される場面ではないか。
なかでも、とりわけ印象的なのは、公園の露店で玩具を売っていた相俊と伽椰子とが、二人してボートに乗るために走り出し、湖面で語り合う場面だった。抜け出してきた伽椰子に「そいつはブラボーだ」とよろこぶ相俊。このシーンとともにはじまるバック音楽も、青春の美さを、無条件に美しく描きあげるのに、大変効果的だ。大自然の中に小さく浮かぶボートの中の二人。麦わら帽子をかぶった伽椰子の美しさは、映画のはじめごろよりいっそうきわだつ。ここは、伽椰子が、はじめて自分の過去を語るシーンだが、その話の中身の重さにもかかわらず、そのきらめくような美しい画面や伽椰子役の南果歩の健気な演技によって、何度みても心ときめかせるものがある。
伽椰子が家出して、相俊がその居場所を探し出し、はじめて二人が結ばれるシーンも美しい。雨の降りしきる中、ひなびた旅館の二階の窓から裸のまま外をみつめる二人。「戦争がぼくたちをあっちこっちひきずりまわしてくれたおかげで、会えたんだ」という相俊。二人は、いつまでも外をながめている。男女の結びつきを表現するのに、扇情的な映像が多いなかで、小栗監督のこの処理の方法は、全く賛成できる。それは、スタンダールの『赤と黒』が、細かな描写なしで、一組の男女の結びつきをみごとに表現したことを、私に思い出させた。
そして、二人が東京ではじめた生活はクナボジたちに露見して、相俊が大学を卒業するまでという約束で、伽椰子は北海道へ帰らざるをえなくなる。相俊と伽椰子が、おそらく最後の二人だけの夜の散歩をする。路上へ耳をつけ、見つめ合い涙を流す二人。ここは、悲しい別れのシーンだが、かえって美しい。それは、愛しあった男と女が、一方の心変わりで別れざるをえなくなったのではなく、心から愛しているがゆえに、別れざるをえなくなった時、その最後は残酷なまでに悲痛だが、二度ともどらないだけに美しい想い出のまま永遠に残る。ましてや、この二人はその結びつきが民族問題を強い接着剤としていたため、別離の傷は深い。ただ、クナボジとトシにとっては、心から自分の娘のように育ててきた伽椰子が、ある日突然家出、同棲し、心底心配したうえでようやくみつけだした経過がある。ここでは、親子の愛情(たとえ、育ての親であったとしても)という、民族を越えた感情も、表現されている。
相俊と伽椰子とのかかわりをめぐるシーンは、その他にも印象深いところがいくつもある。そこには、観る人それぞれの体験によって、強く心に触れるものがあることだろう。
私は、さきに、この作品分析のキー・ワードは、現代社会の抱える「不安」ではないかとのべた。ここまで『伽椰子のために』の印象場面を紹介したうえで、なぜ、また、どういう意味で現代の「不安」なのかを検討したい。
いうまでもなく、現代社会と現代人をとりまく「不安」には、さまざまなものがある。それは、核戦争という人類絶滅への「不安」から、「中流」の崩壊=ニュー・プアーの誕生、サラ金苦、家族の崩壊など、数えあげればキリがないぐらいだ。そういう意味では、現代人とは「不安」のなかで生きているとも言えるだろう。
だが、私がここでいう「不安」、つまり小栗監督が映画をつうじて表現したかった「なんともいえぬ不安な気持ち」とは、一言でいって「アイデンティティの危機」、つまり「自我同一性への不安」ではないかと考える。「自分はいったい何者で、どこから来て、どこへ行こうとしているのか」−昔からよく言われる、この問題こそ、小栗監督の解こうとした課題ではないか。つまり、そこにおいては、恋愛をはじめとした個人の生活の細ごまとしたものすべてが本質的には規定されてしまう、そういった大状況にかかわる課題である。
R・D・レインは、アイデンティティについて次のように説明している。
「女性は、子供がなくては母親になれない。彼女は、自分に母親としてのアイデンティティを与えるためには、子供を必要とする。男性は、自分が夫になるためには、妻を必要とする。愛人のいない恋人は、自称恋人にすぎない。見方によって、悲劇でもあり喜劇でもある。〈アイデンティティ〉にはすべて他者が必要である。誰か他者との関係において、また関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである」。(中村雄次郎『術語集』、岩波新書より)。
それは、「人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである」(マルクス)。
こうして、日本民族と朝鮮民族とのかかわりを考える、そして、そこから浮かびあがってくるものこそが、実は日本民族のアイデンティティの危機である。それを、小栗監督は、「なんともいえぬ不安な気持ち」と表現した。
この映画をみて朝鮮問題のむずかしく、ある程度の予備知識がないとわかりずらい、林相俊も大ききな問題を抱えながら、その苦悩をあまり感じられないと、私もはじめは思った。しかし、その後、小栗監督の発言を読み、考えるうちに、この映画が私たちに伝えようとする基本的メッセージは、さきにのべてきてきたような「不安定」さとも言いかえることのできる現代社会の「不安」ではないか、と確信するようになった。私は、そういう視点で、もう一度『伽椰子のために』を観賞した。そうしてみると、たしかに小栗監督のこの作品にたいするねらいが見えてくるような気がした。いくつかの場面をふり返ってみよう。
たとえば、相俊が朝鮮人集落に友人、春治を訪ねるところ。春治の母親に朝鮮語があまり話せないことを伝えた相俊は、「ああ、兄さんも半チョッパリか。さあ、あがってくれ。入ってご飯でもたべていっておくれ」と言われるが、ことわる。春治の母は、怒ったように「なにをいうんだよ。クニでは乞食が家の前を通っても、呼んであるものを出すんだよ」と言う。相俊のそのときの、きまずげな表情は、現実の祖国の習慣さえ、すべては知らないという在日朝鮮人二世の抱える苦悩の表現ではなかったか。
そうしてみると、相俊の苦悩ととまどい、心のゆれは、随所にみられる。幼稚園に下宿している相俊は、バザーの会場で机の引き扉をひらく。そこには、出征兵士を送る家族の記念写真が貼られていた。そのときアップになった相俊のなんとも言いがたい、不安げに遠くをみやるまなざしは、ひとり相俊にとどまらない在日朝鮮人たちの気持ちを表現しているのではないか、家族に送られた、その出征兵士たちが侵略したひとつの国が、相俊の祖国だったのだから。
相俊が友人、朴楚と橋の上で話し合っているシーン。朴が「俺は遠くない時期に、海の道は開かれると思う。そうしたら、俺は帰ろうと思っている」と語るが、相俊は終始無言のままである。語らないことによって逆に、相俊の動揺が描かれている。
そしてラスト・シーン。伽椰子と別れざるをえなかった相俊が、十年後、クナボジが死んだという噂を聞いて北海道へわたり、実は亡くなったのがトシであることがわかった場面で、クナボジは、いまでも日に一回、伽椰子が面倒をみにきてくれると言う。家を出た相俊は、雪の降りしきるなか、背中をむけて去っていく。雪の中を、少女が遊んでいる。「名前は何ていうの」という相俊に、「美和子よ。歳は三歳」と答える。伽椰子の子供であることを強く暗示させたまま、相俊は、やはり背中をむけたまま雪の中を去っていく。人の背中は、その人生の軌跡を象徴するという。こうして、個人の歴史に変転はあっても、民族問題という歴史の重荷は、引き続き解決されないままである。この歴史的課題を背負って生きていく、一人の青年の姿をとおすことによって、在日朝鮮人すべての現状を象徴して、この映画は終わる。
たしかに、この映画の原作となった李恢成の作品を読むと、林相俊の在日朝鮮人としての苦悩が、内面の動きとしてかなり表現されている。たとえば、在日朝鮮人留学生の運動が、ひとつの重要な舞台となり、そこに登場する何人かの学生運動活動家は、彼らの苦悩と喜びをくわしく表明している。相俊にしても、日本人だと偽ってきた自分が、実は朝鮮人であったと多くの人たちの面前でわかってしまうが、その時の内面描写もリアリティーがある。
だが、小栗監督は、こういう題材をあえて使わなかった。それは、あたり前の事実であるが、原作が、在日朝鮮人作家である李恢成の作品であって、それに対する小栗康平は、あくまでも日本人の足場にしっかり立ち、それを決してふみこえず、この作品にとりくんだということである。俗っぽく言えば、物知り顔で、くどくどと、まるで政治評論を読ませるかのごとく朝鮮問題を解説しなかったのだ。映画の構成のなかにもっとストレートに在日朝鮮人問題を描くことがこの監督にできない、などとは私には全く考えられない。
日本人という明々白々な立場から出発し、在日朝鮮人問題を映像化する作業をとおして、日本人を相対化する。たとえば、相俊という在日朝鮮人は、生育過程のそれぞれの日常のなかで、学校の問題、就職の問題、結婚の問題、言語の問題、国籍の問題等々と重層的な「不安」をもち、さらに加えて、日本人全体がそこにかかわる、端的にいって経済危機といったような大状況にも巻きこまれている。彼は、一言でいって、日本に密接にかかわりながら日本人以上にその存在自体が「不安」な位置にあるといってよい生身の人間である。この矛盾を抱えた生身の在日朝鮮人のありようを、一歩離れたところから見つめる日本人とは、では、いったい何であるかを明らかにすることが、「相対化」の意味するところである。
この人間を描くことで、日本人は、いったい何が見えてくるのだろうか。小栗監督は、映画をみる一人ひとりに朝鮮問題を投げかけ、逆説的に言えば、その「わからない」程度に応じた心のゆさぶりでもって、日本人としての自分の位置の不安定さを確認させているのではないか。
そうしたところから、再び日本と、世界をみわたしてみる。すると、在日朝鮮人とのかかわりだけが問題ではないことがみえてくる。たとえば東南アジアの人たちとのかかわりも、売春ツアーの象徴されるごとく、対等・平等とはいえないことがみえてはこないか。いや、その前に、それらの国々のことを知らない私たちの姿がみえてはこないだろうか。一言でいって、ここで日本人としてのアイデンティティの確認がされる。一見「安定」であるかのごとき、私たちの生活と、そのよって立つ基盤とが、実のところゆがんで、もろく、不安定であることが理解される。だから、日本人監督・小栗康平は、日本人の視点をしっかりと固定させたまま、主人公・林相俊たちの表情を冷めた眼でしっかりと追う方法をとったのだ、と私は考える。
「文学は、必ずその時代の精神、恐怖と希望を何らかの形で反映している、あるいは反映していなければならぬ」とは、大江健三郎の言であるが、これは、そっくり映画にもあてはまる。こうして、この映画で描かれ、また現実に在日朝鮮人が抱えている歴史的重荷は、多かれ少なかれ、現代の日本人が抱える「不安」と「不安定」に通じる。
映画に即して言うならば、いま在日朝鮮人七十万人、サハリンの残留朝鮮人は二千人存在する。二十一世紀まであと十数年という現在、二〇世紀が抱えてきたこれらの問題にわれわれとしては、どう対しようとしているのか。すべての日本人の主体性が問われるところである。
李恢成の原作の最後のあたりで、相俊の友人朴楚は次のように語っている。この精神は、「不安と不安定」を日常に抱えている現代人すべてへの問いかけであり、それはまた、この映画を撮った小栗康平監督みずからの思いではなかろうか。
「覚えているかい。学生の頃、おれはこう言ったもんだった。何十年か後になってみて、息子達はおれ達の送った青春をどう理解するだろうかって−。おれは期待するよ。親達がこんなことで悩んでいたのかなってそのとき案外笑っているのかもしれんじゃないか。そう考えりゃ、いまは過渡期の青春なんだよ。そう思ってこの試練を乗りこえていくべきなんだろうな。でも、おれ達はきっとうまくやってみせるよ」(新潮文庫、二三七ページ)。
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