江森さん

 東京に出てきた一九七七年から通っている「おもろ」という沖縄料理店がある。戸を開けると薄暗い店内のカウンターには客がまばらに座り、黙々と泡盛を飲んでいた。その暗さがいまでも強く印象に残っている。まだ二十歳代のわたしにとって、酒場とは明るい空間と同義だったからである。幾星霜を経て、この小さな店の常連客にも消長があった。何人もの「酒の達人」にも出会ってきた。

 編集者を職業とし、演劇評論を執筆していた江森盛夫さんもそのひとりだ。黒澤明監督の「酔いどれ天使」に子役で出演したこともある江森さんは、スクリーンで見た顔そのままに成長し、還暦を迎え、会社を退職した。それでも酒場での佇まいにいっさいの変化はない。たいていひとりでカウンターに座ると、つまみを一品注文し、冷凍庫で冷やされた泡盛をきっちり二杯飲むと「お勘定」と言って席を立つ。常連と楽しく雑談を交わしていても、決まった酒量を超すことは、まれにしかない。「引き際の美学」は、身についた流儀なのだ。

 こんな常連客の多い酒場こそ名店としての歴史を重ねていくのだろう。そういう客を目指すことだ。窓を開ければ陽が傾きはじめている。さあ、泡盛を飲みに出かけることにしよう。

(「読売新聞」二〇〇〇年五月)

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