「調査なくして発言権なし」

 わたしがテレビで仕事をするようになってからすでに十三年の時間が経過した。なかでも日本テレビ系「ザ・ワイド」でコメンテーターとして発言するようになってからでも十一年近くになろうとしている。その仕事のなかで考えたことは『「コメント力」を鍛える』(NHK生活者新書、二〇〇二年)にまとめたが、それ以降にも日々突きつけられる課題がある。反省することが多いからだ。

 コメントとは言葉を媒介にした世界認識のありようであり、自己認識の投影でもある。もちろんコメントをするには技術もある。時間にしてせいぜい一分から一分半をめどに主張をまとめるには、1.情報の収集と整理、2.取捨選択、3.コメントの構成という三つの段階が必要になる。もっとも実感的なコメントをするには現場で取材をすることである。しかし、日々生起する事件、芸能、スポーツ、政治、経済の現場を「すべて」取材することなど不可能だ。あえていえば「現場」にいることで「見える」ものと「見えない」ものがある。ただ「現場」にいればいいというものでもない。「現場に行きましたが」という言葉が往々にして虚しいのは、そのコメントが「さすが現場で取材しただけの内容だ」というものでなければ、たんなるアリバイ的用語に終わってしまうからだ。

 当たり前のことだが、その取材の質が決定的であり、ときには情報を集中する関係者に話を聞いたほうが全体像が見渡せることがある。それはマスコミ機関でもあれば事件の場合は捜査機関だ。説得力あるコメントは情報の質によって保証される。もちろんその真偽を判断するのが認識の力であることは、すべての前提である。コメントをすることは、日常的な広い視野と知識の獲得を前提として、与えられるテーマに応じたさまざまな「方法」を駆使して核心に迫る「総力戦」なのだ。

 生番組では質問の角度によっては予想外の展開になることがある。そこにコメンテーターの困難もある。最近のコメントでわたしが「失敗だ」と反省したケースを紹介したい。紀宮の結婚式を前にしたコメントがそれである。難しい質問ではなく、一般的な感想を求められたのに対して、わたしは収集した情報を語ろうとした。ケーキカットも指輪の交換もない披露宴の中身がとても素敵で個性的だと思ったからだ。いまの若い世代が結婚するとき、ケーキカットをするのは九割だという統計があった。「それに比べて……」と説明をしようとしたのだが、時間切れで充分に言いたいことを伝えることができなかった。何が問題だったのか。それは限られた時間のなかで実感的な「感想」を語ればいいところで、情報に基づく「論」を展開しようとしたからである。まとまりのない中途半端な発言は誤解を与える可能性が生じる。

 コメント(言葉)が不特定多数の視聴者に届くかどうか。肯定的であろうが否定的であろうが、それがコメンテーターの仕事の最大の課題である。これはテレビでのコメントにとどまらない普遍的な課題でもある。言葉が発せられた途端に揮発することもあれば、相手の胸底深くに到達することもある。コメントすることは、視聴者に対してコミュニケーションの回路が開かれるか閉じられるかという問題だ。そのためのもっとも重要な要素は、発言者が対象とするテーマにいかに向かい、理解するかということである。自分のなかで充分咀嚼し、納得していないコメントは相手に届きはしない。言葉が身体から離れている場合には説得力を持たないのだ。それでは身体に密着した言葉とは何によって保証されるのか。論理や情報だけではなく、実感なのである。

 たとえば「おすぎ」のコメントは情報を意識的に収集、吟味して発せられるものではなく、独特の感性に基づくものが多い。その意見に賛否はあろうが、それが「おすぎ」の思うことなんだなとよく伝わってくる。「届く言葉」なのだ。ところが「大学教授」や「評論家」の肩書きで専門的な内容を語っても、その物言いが高見から行われたりエキセントリックな場合には、受け取る側にはそれだけで反発してしまう者が多い。あるいはある分野の専門家であっても、その境界領域で「犯人は顔見知りでしょう」などと予言者のごとく語るならば、そこでも違和感が生じる。ましてや「コメントなんてその場で思いついたことを言えばいいんですよ」などという専門家などは論外である。「調査なくして発言権なし」(毛沢東)。視聴者はコメンテーターの語る内容をその表情や語り口などをふくめた全人格として受けとめるものだ。

 この十年ほどコメンテーターの仕事をしていて不思議に思うことがある。その顔ぶれが、適宜入れ替えはあるものの、まるで「金太郎飴」のようにいっしょであることだ。テレビ各局はもっと新しい人材を発掘すべきだ。番組の質についても注文がある。ニュースを「正規軍」、ワイドショーを「ゲリラ」に例えることがあるが、そのワイドショーにして「タブー」がある。たとえば靖国問題などを各局の番組はどれほど歴史的、原理的に報じただろうか。何よりも問題だと思うのは、活字媒体(新聞、週刊誌など)を取材の出発点とすることが圧倒的だということである。出来合いの記事をなぞるだけで終わるような取材でいいわけはない。しかも曜日ごとの縦割り体制では、連続性に齟齬をきたすことがある。ニュースの発掘、独自の切り口がまだまだ少ない。

 午後のワイドショーを各局は復活すべきだ。わたしがテレビの仕事をはじめたとき、いちばん出演していたのはTBSだった。もちろんフジテレビ、テレビ朝日、日本テレビも午後枠で同様な番組を持ち、それぞれが切磋琢磨していた。「木島則夫モーニングショー」がはじまったのは一九六四年。それから四十年の歴史のなかでワイドショーは進化してきた。それでも日本独自のワイドショーを歴史に耐える水準の内容に育てるには、まだまだ道は遠い。そうわたしは思う。

(TBS『新・調査情報』2006年1・2月号)

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