あなたは「蕎麦派」か「うどん派」か―いきなりそう問われれば私は即座に「うどん派」と答えてしまうだろう。時間に追われたときに駅の「立ち食い」店でかき込むのは必ずといってうどん。春菊の天麩羅を乗せるか、時間にゆとりがあればカレーうどん。大阪に出張したとき、時間を作ってでも立ち寄るのは田中康夫さんが「斯界随一のうどん」と高く評価した「はがくれ」という大阪駅前ビルにある店だ。
私の印象では、どちらを好むかは出身地や年齢によって異なるのだと思っていた。「うどん派」の関西、あるいは高年齢層の「蕎麦派」といった漠然とした理由だ。京都で生まれた私だが、小学校は東京・新宿と東伏見、京都・深草、大阪・茨木と三地域、都合四つの学校に通った。そして就職で上京してこの春で二十三年間の東京暮らし。関西か東京かという時間で計れば、後者で過ごすほうがいまや多くなってしまった。
地域性でいえば私はすでに東京人。しかも嗜好に年齢が関わっているとすれば、いまや中年に至ったから、「うどん派」から「蕎麦派」に移行してもよさそうなものだ。そう考えると私の「うどん派」の立脚点も一挙におぼろなものとなってきた。
「蕎麦とうどん」。この問題に向き合って考えるにつけ、印象としての「うどん」に比べて、これまでの人生に関わっての多彩な思い出が蕎麦と結びついていることに気がついた。そう、生活の節々と結びついて記憶に蘇るのは蕎麦とのさまざまな出会いだったからだ。
理不尽としか思えない理由で会社を追われた私が、闇の中を手探りで歩むように職を求め、わずか四か月だけ在籍した小さな出版社は神田駿河台にあった。ある日の昼、編集長が連れていってくれたのが須田町の「まつや」だった。私にとって老舗といわれる店に入った最初の体験だ。ざわざわとして活気ある空間。慌ただしく空腹を満たしている姿もあれば、そんな喧騒とは無関係とばかりに悠然と板わさをつまみに酒を飲む客もいる。日常性から少し隔たった世界。世間知らずの私には不思議で刺激的な体験だった。
いまでもそうだが統一教会を取材する者などほとんどいないマスコミ状況にあって、全国を歩いた九〇年代はじめ、新潟県・新津で牧師さんや元信者に連れていってもらった店で初めて食べた「へぎ蕎麦」の新鮮な驚き。オウム問題で出かけた長野の善光寺近くで味わった手打ち蕎麦の魅力も忘れることができない。
そういえば都はるみさんに関わっても蕎麦だ。あれは九三年のことだが、『歌屋 都はるみ』と題した本を書くために軽井沢にある講談社の保養施設に一週間泊まり込んだことがある。担当編集者と駅前にある蕎麦屋に入り、「勢いをつければ原稿も進む」などと理屈を並べ、昼間から大酒を飲みながら蕎麦を食べた記憶も懐かしい。
人生の四季の印象的な体験と蕎麦が結びついているのはなぜか。それはおそらくうどんに比べると蕎麦の方が男の流儀というものとより固く結びついているからだと私は思う。若いころならいざ知らず、年を重ねるほどに人それぞれの生きるスタイルが自然に身に付いてくる。「食」も文化の重要な要素であるからには、何を選択し、どう向かい合うかにその人らしさがおのずと現れるものだ。
通ぶるのではなく、ごく自然の振る舞いとして蕎麦を「いかに」食べるのか。池波正太郎さんが『男の作法』(新潮文庫)のなかで述べているように、「どこそこの何というそばでなければ、そばじゃないなんて決めつけるのが一番つまらないことだと思う」という一つの立場。蕎麦にまつわってさまざまな意見があるのは、生き方と同じくそれだけ多様な「構え方」があるからではないか。
あなたは「蕎麦派」か「うどん派」か。いまそう問われれば、私は「たっぷりとした思い出は蕎麦派だ」と答えるだろう。