私の沖縄

「沖縄をかえせ」という歌が作られたのは一九五六年。いまでは四十年以上もの時間が過ぎ去ったことになる。私がこの歌を知ったのは、歌の完成から十三年経った、おそらく一九六九年だと記憶している。「おそらく」というのは、当時高校生だった私は、安保反対運動などに加わって、生まれてはじめてデモ行進に参加したからだ。京都の祇園にある円山公園を出発したデモ隊は京都市役所へ向かった。何の気兼ねもなく車道を歩くという経験は、いまから振り返ってみても、心のなかに開放的で新鮮な気分を醸し出した。デモの隊列がスローガンを唱和し、歌を歌うことも、高校生の私には不思議な体験だった。当時は沖縄返還が大きな課題だっただけに、いくつかの歌のなかに「沖縄をかえせ」があったことは確実である。

 高校生の私にとって、沖縄についての知識はほとんどなかった。したがって、「沖縄をかえせ」を歌うことが私のはじめての沖縄体験だった。

 堅き土地つちを破りて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ
 我らと我らの祖先が血と汗を以て 守り育てた沖縄よ
 我らは叫ぶ沖縄よ 我らのものだ沖縄は
 沖縄をかえせ 沖縄をかえせ

 それ以来、「知識」としての沖縄は蓄積されていったが、それはあくまでも「情報」でしかなかった。実感としての沖縄、つまり自分の血肉となる沖縄を体験するまでには、私にとって十年以上の時間が必要だった。会社勤めを強制的に辞めさせられた私は、やむなくフリーで原稿を書く生活をはじめていた。小豆相場のパンフレットや着物専門誌などに原稿を書き、最低限の生活を毎月毎月何とかしのぎながら、いつか「書きたい」と思うことを表現する生活に憧れていた。

 あるとき、国鉄問題を取材している先輩ライターの手伝いでいくつかの取材を行い、データ原稿にまとめるという仕事を引き受けた。『朝日ジャーナル』との出会いである。仕事を終えたある日、編集部の伊藤正孝さん(故人。のちの編集長)から「何か書きたいことはありませんか」と電話をいただいた。このひと言が『朝日ジャーナル』で原稿を書くきっかけとなった。ちょうど昭和天皇在位六十年が話題になっていた時期である。私は京都の財界と「新京都学派」と呼ばれる梅原猛氏たちが、京都遷都などを構想している秘密会議録の存在を書かせてもらった。この八七年秋に沖縄で行われる国体には、昭和天皇が出席する予定だった。戦後全国巡幸でも実現しなかったはじめての天皇訪問の是非で、沖縄の世論は分かれていた。「天皇と沖縄というテーマでルポを書きませんか」。私は、編集部の遠藤健さん(現編集委員)に誘われて、はじめて沖縄を訪れることになった。

 私が予定し、実現したのは次のような取材だった。「平和旅館」を経営する戦争体験者に、その命名の気持ちを聞くこと、沖縄で天皇訪問を推進する立場の人物に、その論理と心理を聞くこと、そして最大の課題が「集団自決」の体験者に話を伺うことである。沖縄に向かう前から心に決めていたのは、「集団自決の谷間から」という体験記を書いていた沖縄キリスト教短期大学の金城重明さんに連絡を取ることだった。電話をした私に金城さんはこう言った。「一日考えさせてください」。翌日連絡を取ったところ、「私がお話しすることで何かのお役に立てれば」と取材に答えてくださることになった。

 約束の時間を決めた私は、大江健三郎氏の『沖縄ノート』などを読み返しながら、「このままではいけない」という思いに至った。そのときの気持ちを私はのちに次のように書いている。

「わたしの人生をふり返ったとき、一九七二(昭和四十七)年の沖縄返還協定当時のことは、いまでも鮮明な記憶として残っている。『沖縄を返せ』と歌ったし、デモにも加わった。だが、沖縄の地で数々の証言を見聞きしていると、当時の自分がどれほどの事実を知っていたのだろうかと思わざるをえなかった。いや、何も知らなかったと言ってもいい。わたしは、当時の自分が恥ずかしくてならなかった。活字では読んでいた。しかし、想像力のなんと貧困だったことだろう。もちろん、二十歳そこそこのわたしの水準の低さを責めていたのではない。血肉とならない知識の無力さに、あらためて気づかされたのだった」(『朝日ジャーナル』八七年五月八日号、『天皇をどう教えるか』教育史料出版会所収)

 私は金城さんに改めて電話をして取材を半日延ばしてもらった。渡嘉敷島に渡って、その「現場」で考えたいと思ったからだ。少なくともそれぐらいの「行動」を取らなくては、金城さんに話を伺うことはできないと思ったのだ。私の沖縄ルポは、当然ながら金城さんをめぐる出来事が中心となった。沖縄には二週間滞在したが、夜には遠藤さんに連れられて、詩人の川満信一さんとともに海勢頭豊さんのお店に出かけ、「山谷ブルース」を歌ったことも思い出深い。あれからまた十一年。私の沖縄初体験は、いまでもありがちな、物知り顔の知識のための知識など、たちが悪いだけでなく有害だということを確信させてくれたのである。

(『すけっちぶっく)98年第2号 

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